家に戻ってきて5日目。母に頼まれた買い物に行こうとして家から出ると、ちょうど向かいのドアが開いた。
「あら、直樹ちゃん? ずいぶん、久しぶりね」
向かいの部屋のおばさんは、小学校の時からあたしを知っている。
「……はい」
『まずい』って思った。その時のあたしは、近所のしまむらで買ってもらったデニムの短パンとTシャツにパーカー。当然レディースのだから、見た目は完全に女の子。おばさんはあたしが男の子だと知ってるから、やっぱり戸惑っている。
「転校して……あ、あ、……全寮、の、学校。入ったんです」
不意打ちだったから女の子の声が出てしまった。
『おばさん。あたしは、元々女の子だったの』
そう説明したかったけど、そんなこと普通の人に理解できるはずがない。
「あら、そうだったの」
急におばさんは笑顔になった。
「お母さんもそれなら安心ね。家に女の子一人じゃ、心配だものねぇ」
「はい……」
今度はあたしが戸惑った。どうしていきなり納得しちゃったのか。おばさんにぺこんと頭を下げて、階段を降りているときに気がついた。
「もしかして……あたし、特殊能力使っちゃった?」
もしかすると。あたしは意識しないでおばさんに思念を送って記憶を改変してしまったのかも知れない。
そうでなかったら、半年前は男子中学生だったあたしが女の子になっているのなんて納得できないはず。急にものすごい不安が押し寄せて、あたしは体が冷たくなった。
スーパーに行く途中で、あたしは横断歩道の信号待ちで二人の男子と出くわした。
「あ……」
急に足が動かなくなって、つまづきそうになった。ここの中学にいたとき、あたしをいじめていたグループのやつらだった。高幡直樹のときに復讐して10人を病院送りにしたけど、その残りだ。
「気が付く……かな」
着ているものは女の子のものだし髪も長くなっている、でも顔までは変わらない。前のあたしを知っているから、よく見られたらきっとバレる。目を合わさないように、顔をそむけてやりすごそうとした。
「おい」
信号が青になって歩き出したとたん、その二人が声をかけてきた。無視して歩き続けたら、追いかけてきて肩をつかまれた。
「お前、高幡直樹だろ!」
「誰よ……それ? あ……あたし、が、男に、見える?」
しらばっくれようとしたけど、近くで見られたらごまかせない。
「お前学校辞めたんじゃんないのか? なに女のカッコしてんだよ?」
「知らないって言ってるでしょ! いやぁ!」
走って逃げようとしたら髪と服をつかまれた。こいつら、誰かが見たら女の子を襲っていると思われることをわかっているのだろうか。そんなことを考えていられるほど、まだあたしは冷静だった。
「やめてえぇぇぇ!」
抵抗しない最後の手段。女の子の声で本気の悲鳴を上げた。
「このやろう!」
頭の横、平手で叩かれた。こいつら、本当に救いようがないバカだ。
「おいっ! なにやってる!」
男の人の声。バカ二人は走って逃げだした。逃げ際に髪の毛むしられた。
『〇ね。このバカ!』
最後の最後であたしはキレた。口には出さなかったけど頭の中で思い切り二人をののしった。
逃げていく二人。いきなり何かに躓いたみたいに、派手な音をたてて並んで倒れた。二人はもぞもぞ動いているけど立ち上がれないみたいだ。声をかけてくれた男の人があわてて見に行った。
「救急です。中学か高校生ぐらい、男性二人が歩道で転倒して、立てません……意識、あります。はい……」
男の人がスマホで救急車を呼んでいる。人が集まってきた。
「救急車呼んだから、君はもう行きなさい」
男の人に言われて。あたしは逃げるように、じゃなくて本当にそこから逃げた。半分パニックでスーパーで買い物をして、本屋に寄ろうと思っていたけどそのまま帰った。
「いまの、これ……本当の、ことなのかな?」
家の中であたしは頭を抱えた。さっきの出来事は本当にあったのだろうか。高幡直樹のときは何日何日も、憎んで憎んでパワーをため込んで、頭の中で相手の死んでいる映像を思い浮かべるくらいになってやっと能力が働いた。
でも今日のおばさんもバカ二人も、ほんの1秒か2秒。それで『何か』が働いた。
これは目が覚めたら全部夢で、いやいや市立中学に行ってまたいじめられるのかも知れない。洗面所に行って鏡を見つめた、そこにあるのは男の子か女の子か微妙な自分の姿だった。
「あたしは……相楽、瑞貴……よ」
自分の、高幡直樹の部屋に入って中を見回した。もう相楽瑞貴には必要のないものは段ボールに押し込めてある。男の子の服や下着、直樹はもういない。
「夢じゃなかったら……あたしが、自分の、つごうの良いように……周りを、操ってる?」
壁のカレンダーは4月のまま。始業式からたった2週間で直樹は手が付けられないものになったから。
台所に行って、ママのパート予定が書き込んであるカレンダーを見た。8月。大楠異能学園で過ごした時間は、夢じゃなくて本当のことなのだ。
「あ!」
あたしは何気なく胸元に手を当てて悲鳴が出た。
「いけない。エンブレム……封象……忘れてた」
家に帰った最初の夜、お風呂に入るときに外してそのままだった。あたしはまる一週間、特殊能力を出しっぱなしだったのだ。
おろおろしながら封象エンブレムを探し回って、リュックの肩紐に通しておいたのをようやく思い出した。首にかけて、洗面所で鏡を覗いた。
「直樹……ねえ、どうしたらいいの?」
もしかしたら、いまのこの世界はあたしが自分の特殊能力で作ってしまったのかも知れない。無駄だとわかっていたけど訊かないではいられなかった。なにかしていないと不安で体が弾けそうだ。
「あ……」
そのとき、夏休みの説明会でヒナが言ったことを思い出した。
『何があっても3日はがまんしろ』の『何か』は、こんなことなのだろうか。急に涙が出てきた。
「帰りたい……学校……」
やっぱりあたしは、ここにいてはいけないものだった。
次の朝、あたしは少しだけ増えた荷物を持って家を出た。母は何も言わないで、あの承認の書類にサインしてハンコを押してくれた。
東武東上線からJRの武蔵野線に乗り換え、まだものすごい人の流れに押される。
ぎゅうぎゅうの武蔵野線、人の隙間で潰されそうになりながら必死に意識を散らしていた。でももう人混みは恐くない。恐いのは相楽瑞貴、あたし自身だった。
寮に戻ると部屋のアコーディオンカーテンは閉まっている。ヒナはもう帰ってきている。
「ただいま」
声をかけてアコーディオンカーテンを開けた。ヒナは制服姿でベッドに腰掛けている。
「おかえり」
ヒナが言ったのはそれだけだった。
ベッドにリュックと紙袋を置きながら考えたけど、ヒナに何を話していいのかわからなかった。
「晩ご飯、ちゃんと申し込んだ?」
「うん」
半分上の空で返事をして振り返ると、ヒナがあたしに向かって両手をさし出していた。あたしは引き寄せられるようにヒナの前にひざをついて、ヒナの胸に顔を埋めた。
「辛かった?」
ヒナが、あたしの体を優しく抱いて言った。
「うん……」
初めての休みのあいだに学校の外で何が起こるのか、やっぱりヒナは知っていたのだ。悔しかったり怒って泣いたことはたくさんあったけど、今はどうして泣くのか自分でもわからなかった。
ヒナの胸であたしは声を上げて泣いた。