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第17話「夏休みサッドネス」

 授業と訓練のスケジュールに追いまくられて、いつの間にか真夏になっていた。いつもの週初めミーティングで梓さんがプリントを配った。

『夏休み期間中の行動予定・在寮予定表』

「今週中に記入して、事務に提出してね」

 もう一枚『特別事業への参加承諾書』

「みんなの保護者には、もう役所の人が説明に行ってるそうよ。そこで内諾はもらっているはずだけど、もう一度直接話し合ってそれにサインしてもらって」

 みんな、だまってそのプリントを見つめていた。

「夏休み……あるんだ」

「あたりまえでしょ」

 ヒナがプリントを折りたたみながら小声で言った。

「高等科は帰らなくてもいいけど。中等科は、最低3日は家にいるのが決まりなの」

 そう言ったヒナの顔が、なんとなくさえない。

「3日?」

 あたしは思わず聞き返した。どうしてそんな決まりなのだろう。

「そうよ。何があっても3日はがまんしろってこと!」

 なんだかわからないけど、それ以上聞くとヒナが怒りそうな気がした。

「瑞貴もあれだけの能力持ったんだから、帰ればわかるわよ!」

 ますます意味がわからない。

「そこ! ちゃんと聞きなさい!」

 梓さんに注意されてしまった。

「ここに貼っておくけど、今年来たひとは覚えておいてね」

 ホワイトボードに貼ったカレンダーを指しながら梓さんが説明した。

「8月2日から31日まで朝の給食はなし。お昼はお弁当を事務に申し込むこと。9時までにね! 夕食だけいつも通り。でも午後2時までに申し込まないとその日は晩ご飯ないからね! 帰ってきて晩ご飯食べたかったら、その日午後2時までにメールか電話するのよ!」

 それから梓さんは、オレンジ色のカードを頭の上にかざした。

「休み期間中は事務でこのカード借りて、朝食べるものとかは校内のコンビニに買いに行けるから。外出は午前と午後に1時間ずつ、そのとき封象エンブレムは絶対つけて出るのよ!」

 それから、何かのパンプレットが配られた。

「休みが明けたらすぐ、アズマトロンの現地視察があるそうです」

 ざわざわしていた食堂が、ぴたっと静かになった。

「夏休みの間に、覚悟を決めてこいってことだ」

 高等科の誰かが言った。

「特に、中等科の子。ご両親の両方ともが許可しないと連れて行けません。参加したかったら、休み中によく話し合ってきて」


 8月2日。ヒナは家から迎えが来て、お昼前に寮を出ていった。あたしはパートで出ている母が帰るのに合わせて、午後に寮を出るつもりだった。

 お昼を食べに食堂へ行くと、中学グループがいつも使うテーブルに大友だけがぽつんと座っていた。ちょっと迷ったけど、離れて座るのも嫌だったからお弁当を持って向かいに座った。

「まだ帰らないの?」

 聞くと、大友はちょっと首を振った。

「帰ったら、どうせすぐケンカになる」

 何と言って良いのかわからなかった。大友はあのことでしばらく謹慎みたいになって、そのあと高等科の人たちに絞られたらしい。7月になってから全員の前であたしに謝ったけど、あたしはもう体育館の裏で全部済んだことだと思っている。

「相楽……は?」

「お母さんがパートで夕方に帰ってくるから、その頃」

 お弁当はサケのフライとオムレツ、それに豚汁。

「お母さんはまだ……あたしがこうなったの、知らないの」

 大友が驚いたように顔を上げた。

「こうって。女子の……女子に、なってること?」

「うん……セーラー服で帰るつもりだったけど、まだ悩んでる」

「いままで……どうしてたんだ?」

 タルタルソースがついていたのに、うっかりフライにウスターソースをかけてしまった。

「ここに来るまで、家でも学校でも男子の言葉だったよ。あたしじゃなくて、自分って言ってたし」

 はじめて大友といろいろ話をした。前の、高幡直樹だったら絶対こんなことはできない。いじめられた相手を徹底的に恨んで憎んで、そのうち何か危険な復讐をしたと思う。相楽瑞貴は、もうぜんぜん違う人間になってしまった。

 午後3時に事務で一時退寮の手続きをして、家まで帰る方法を教えてもらった。ここへ来た時は目隠し状態だったから、大楠学園がどこにあるのか今まで知らなかった。家まではバスと電車で1時間半かかるらしい。

 事務でもらった交通カードで、大学前からバスに乗ってJRの駅。何ヶ月かぶりかで人混みに巻き込まれて目が回る。

「あたし……いま、どこにいるの?」

 路線図を見たけど、いまどこの駅にいてどこへ向かったらいいのかわからない。池袋から東武線に乗るにはどうしたらいいのだろう。考えてみたら、今まで家から新宿にも出たことがなかった。

「おちつけ、あたし……」

 券売機の前で固まって、通る人のじゃまになりながら必死に路線図を見た。

「あ……北……朝霞」

 やっといまいる駅と、知っている駅を見つけることができた。遠回りだけど、新宿駅で乗り換えなんて絶対にムリ。こんな小さな駅でパニックになってるのに、新宿なんて恐くて降りられない。

 学校支給のリュックを抱えて、あたしは電車の座席で小さくなっていた。お客さんはみんなスマホを見ていて、誰もあたしのことなんか見ていない。それが逆に安心だった。制服の女の子もいるけど、変な目で見られたりはしなかった。

 北朝霞の駅もすごく混んでいたけど、知っている駅だからちょっとは平気。東武線に乗って、ようやく普通に息ができるようになった。あたしが知っていた世界に戻ってきた。

 駅から家まではバス停で3つだけど、自分の世界をもう一度確かめたくて歩いた。ちょっと寄り道をして、一年間嫌な思いに耐え続けた私立の中学にも行ってみた。ここも夏休みだから校門は閉まっている。

 通っていた間は地獄だと思っていたけど、今のあたしが見ているのはただの中学校。何か言ってみようと思ったけど、何も思い浮かばなかった。

 小学校からずっと住んでいた市営のアパート。階段で3階まで上っていくうちに、だんだん緊張で胸が苦しくなった。チャイムを押したら良いのか鍵を開けたらいいのか考えて、何となくドアノブを回したら開いた。

 玄関の正面は高幡直樹の部屋。右側はすぐ台所で、母が料理をしている音。息が苦しくなった。そっと後ろで玄関の戸を閉めて、鍵をかけて灯りを点けた。

「ただい……ま」

 出た声はかすれていて、どっちでもなかった。

「ママ」

「直樹? 遅かった……」

 こっちをのぞきこんだ母が硬直している。息子だと思ったのに、セーラー服を着た女の子がいたら誰だってびっくりする。

「直……樹……どう、したの? それ」

「あそこで……一楠で。女子に……女子の、扱いにしてもらったの」

「そんなこと。できるんだ」

 あたしが「体が違う!」って散々困らせたから、面倒くさい説明はしなくても済んだ。

「ママ……ごめんね。いままで、苦労、させて……困らせ、て」

 声が詰まって、ボロボロ涙が出た。あたしは、これを言うために帰ってきたのだ。

「いいから、そんなこと」

 母はそう言って、あたしをぎゅっと抱きしめてくれた。

「入って。お腹空いてるでしょ?」

 あたしは結局、一週間家にいた。前のあたしの部屋を片付けて、母と娘になって過ごした。アパートには高幡直樹だったころのあたしを知っている人たちもいるはずだけど、誰も変な目で見ない。

 あまり覚えられていなかったのかも知れない、それはそれでよかった。あの高幡直樹はもういないのだから。


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