大楠異能学園高等科3年生。羽月愛名は、その朝レッド寮の個室で目を覚ました。
『おはよう。今日も一日、楽しい学びの時間をすごしましょうね』
全ての部屋で聞こえる朝のアナウンス。羽月はそっとベッドから抜け出して、床に投げ出されている下着を拾った。なるべく音を立てないようにシャワーを使い、下着をつけて制服を着た。
「起きて」
ベッドの毛布をそっとめくり、中に声をかけた。
「うん……」
毛布の下にいた男子がのろのろと体を起こした。
「15分でシャワー使って、ちゃんと制服着て」
「うん……」
高等科1年生の平田悠斗が、くぐもった声で返事をして顔を擦った。それを確認すると、羽月は朝食を受け取りに個室を出た。それぞれの個室まで職員が配りに来ることになっているのだが、平田のようにそれすら拒否する生徒もいる。
平田悠斗の特殊能力系統は『F(直感)』。未来予知と他人への精神感応能力が強く、中学3年から他人と接触することを嫌がって不登校になった。
大楠異能学園に転校してから精神状態は安定に向かったのだが、高校に進んで以降この数ヶ月で再び悪化。自分でレッドの個室に引きこもった。
現在まともに会話ができるのは、と言うより近寄ることができるのは同じ『F』能力の羽月だけだった。
レッド寮とグリーン寮を
「あれ? 梓?」
扉には窓もないのだが、向こう側に梓がいることを感じ取ったのだ。扉によって思念波は遮断されているのだが、これは羽月の予知能力の一部だった。
思わず鉄扉を開けようと手を動かしかけたが、ここ専用のIDカードがなければ鉄扉は開けられない。いつも羽月は給食ワゴンと一緒に出入りしているのだ。
かすかなモーター音ときしみ音をたてて鉄扉が開き、朝食を納めた給食ワゴンと一緒に梓由依が入って来た。
「ごめん。今日、教室で会えないかも」
戸惑っている羽月に、梓は囁くような声で言った。そして梓は羽月に体を寄せて、その手に何かを滑り込ませた。羽月は無表情にそれをスカートのポケットに押し込み、梓に小さく頭を下げた。
小さく折りたたんだレジ袋の中は避妊具だった。高等科の3年生がお金を出し合い、梓が外のドラッグストアで買ってくる。平田悠斗の精神崩壊を、羽月が自分の体を使って食い止めているのだ。
「でも、これだけで来たんじゃないよね? 梓、なんかモヤってる」
羽月はワゴンの中から、2人分の朝食をバスケットに取り出しながら言った。
「うん、頭の中思いっきりモヤってる。昨日の中間能力総見、通知行ってる?」
「来なくていい……って言うより『来るな』って言われた」
「来るな?」
梓は不審そうに聞き返した。例年の『中間』「期末」の総見では、F系の生徒は個別の面接を行う。体育館に行くのは自由意志で、来なくてもいいことになっているのだ。わざわざ来るなと指示した理由は、校長が話したことと関係があるのだろうか。
「今日ならたぶん、彼は話せるよ。私はいつでも」
梓が口に出す前に、羽月は梓の質問を読み取って答えた。
「ごめん……彼の状態、まだ改善しない?」
梓が聞くと、羽月は小さく首を振った。
「改善が……彼にとってどんな状態なのかわからないけど。読んでいる本を閉じるように、視ているものを遮断する。理解していると思うけど……彼はそれができないらしいの」
「それは、コントロール不能ってこと? どうして?」
羽月はまた小さく首を振った。
「私は……予知夢みたいに、イメージがふっと目の前に降りてくるけど。彼は違うの、ずっと……人や物の未来が、リアルタイムで見えちゃう」
「エンブレムで封じられないの?」
「それでも見えるんだって。特に……」
羽月は左手を顔の前にさし上げた。
「こんなふうにすると、自分が死んで行くときの……手がどんなかって。見えちゃう」
「残酷な能力ね」
「私は同系思念で無効化できてるから、いま彼の世界でまともに見えるのは私だけよ。できるものなら、誰か精神干渉の能力でなんとかしてもらいたいわ」
梓も羽月も、ひっそりとため息をついた。
「それでね……」
梓が、言いにくそうに声を出した。
「もうわかっていると思うけど……予知、聞かせてほしいの」
羽月が少し眉をひそめた。
「それ、個人的に? じゃないね」
「高等科全員が知りたがってる……もしかすると中等科の子も関係する」
「予知……みんなの、未来?」
「そう。昨日、校長が。大学と企業のプロジェクトに、あたしたちが参加するって言ったの。それをみんなが不安がってる」
羽月はそれを聞いて首を傾げた。
「プロジェクトの予知? そこまでは無理よ」
「来年の初めとか、あたしたちが何をやっているか。それならできるでしょ?」
「それなら、たぶん」
羽月の答えに梓が頷いた。
「昼休みでも、夕方でもいい。平田が良いって言うときに、誰でもいいから知らせて」
その日の昼休み。昼食が終わった食堂に高等部と中等部のほぼ全生徒が集合した。体育館や教室を使うのには学校の許可がいるが、食堂に集まるのに許可はいらない。
「あれ? 相楽とおヒナは?」
「大学の研究室に呼ばれて、まだ戻って来てないみたい」
そこで羽月愛名に手を引かれて、タオルで目隠しをした平田悠斗が食堂に入ってきた。生徒たちのかすかなざわめきは、梓の手の動きでぴたりとおさまった。
「平田、梓由依よ。質問していい?」
平田が返事をするまで数秒の間があった。
「どうぞ」
「6ヶ月先、1年先って……時間を区切って、予知できる?」
「羽月さんに、聞きましたけど……学校の、みんなのことですか?」
「そう」
ややしばらく、平田が息をつく音だけが聞こえた。
「時間は……半年か一年後か、わかりません。でも、みんな……ここじゃない場所に、います」
「どんなところ?」
「機械……モニターとか……人が、生徒以外にも人がいて……子供の頃。社会見学で見た……清掃工場の制御室が、一番近いと思います」
「なにを……してる? 私たち」
またしばらく、平田は顔を上に向けて呼吸を続けた。
「なにも……していないように、感じます」
一瞬だけ全員がざわついた。
「3人は……たぶん、祈ってます」
「祈る?」
「何をしているのかわかりません。祈っている感じが……一番、近い」
「だれ? 3人って」
平田は顔を上に向けたまま、ゆっくり首を振った。
「3人とも、誰かわかりません。でも、着ているのは、ここの制服だと思います……」
「私たちがそこでしていること、どうなるのか……結果は見える?」
「どう……なる……ああ……」
平田がそこで歯を食いしばり、激しく首を振り始めた。
「どう……なる……」
「ひああっ!」
ふいに、平田に寄り添っていた羽月が悲鳴を上げて床に座り込んだ。
「羽月……さん……」
平田が羽月の手を求めているのか、左腕で宙を探っている。
「ああ……ああ……」
床に崩れ落ちた羽月が這い歩いて壁に向かい、よじ登るようにしてホワイトボードに取りついた。
「あぁあ、あああああ……」
奇怪な声を出しながらマーカーを取り上げて、ものすごい勢いでホワイトボードに何かを描きなぐりはじめた。
「降ってきたんだ……」
あちこちで囁く声がした。『予知のビジョン』を見たとき、羽月は狂乱状態になってそこらに画を書きなぐる。赤と黒のマーカーがボードを擦る嫌な音、それがしばらく続いた。
「なに……あれ?」
「ローソク……ケーキ?」
誰かが言った。束ねられたような三本の
「悠ちゃん、悠ちゃん……これ、見て」
羽月が震えるか細い声で言いながら平田のところへ戻り、目隠しを外した。目隠しのタオルを押さえていた黒い紐のようなものは、タイツかストッキングだったらしい。
「ああ……」
重苦しい沈黙が続く中で、平田が
「説明……できる?」
平田がゆっくり二度頷いた。両手で目のあたりを何度か擦って、食堂にいる全員を見回した。