廊下の床が斜めになっているような気がしたけど、なんとか面接室から事務室まで歩いた。入ったのは事務所の端っこにくっついた窓口みたいな狭い部屋で、曇ったようなガラスで事務所の中と仕切られている。事務所の声も物音も、ぜんぜん伝わってこなかった。
「そこ座って」
梓が言って、ドアを塞ぐようにして後ろに立った。椅子は貧弱なプラスチックのスツールで、座ると梓が後ろから手を延ばしてインターホンのボタンを押した。
少しして、向こう側に女性の事務員がやってきて腰を下ろした。
「高幡直樹さん?」
事務員の声がスピーカーから出た。聞きたくもない名前だから、聞こえないふりをした。
「本人は相楽瑞貴だと言っています。登録、変更してください」
後ろから、梓が代わりに答えた。
「名前の漢字、説明しなさい」
梓に言われて苦労しながら説明すると、事務員がそれをキーボードに打ちこんだ。
「保護者の方に……」
モニターを見たまま事務員は続けた。
「高幡亜紗乃さんは、お母様ですね?」
ムカつくのでそれにも答えなかった。事務員に『想像』を送り込もうとしたけど何も起こらない、事務員の頭の中も読めない。
「答えなさい」
また後ろから梓の声。
「そのガラスは防弾で、思念波も遮断するの。無駄なことしないで早く手続き終わらせなさい」
「なんで……」
梓は恐いけど、黙って言われるとおりにしたくない。
「無理やり。じゃ、ないですか?」
「あんたに権利はないの。人間として最低限の尊厳だけ」
「どうして……ですか?」
「何度も同じこと言わせないで」
『最悪に危険だから』なのだ。
「高幡……亜紗乃。は……母、です」
声を絞り出すように答えると、職員は頷いてマウスを操作した。
「お母様には承諾をいただいています。あなたは市立第二中学校からこの大楠異能学園へ転入になりました、学年は中等科二年生のままです。これは市の教育委員と県の指示によるもので、あなたは拒否できません」
体の中で、まっ黒い怒りの塊が湧き起こった。
「そん……」
「いま、拒否できないって聞かされたでしょ」
梓の声。背中を氷のナイフで刺された気がして声が出なくなった。それから事務員はなんだかいろいろ言っていたけど、ぜんぶ耳を素通りした。
「相楽瑞貴はレッド2ですけど、個室でガイダンスですか?」
不意に、梓が事務員に聞いた。
「そう……なるわね。普通は」
「テレでも対面でも、教官の言うことを聞かないかも知れません。それに攻撃性高いから、隙見せたらかなり危険です」
化け物扱いされたようでまた腹の中がうずいた。でも梓が恐いので、怒りは無理やりに押し込めた。
「T1プロテクトで連れてきたみたいですけど、たぶん次は効かないと思いますよ」
梓がそう言うと、事務員の表情が固くなった。
「職員じゃなくて生徒の補佐役をつけて、何日かでガイダンス修了させるのが良いと思います」
事務員は少しの間考えて、席を立って向こうの誰かと話しをして戻ってきた。
「前例はあるそうだけど、安全にできるの?」
「ディフェンサーじゃなく、オフェンサーでしたら制御できると思います」
頭越しに、梓と事務員が話す。
「誰か、心当たりがいるの?」
「向坂陽菜」
「えっ?」
事務員が、初めて感情を声に出した。
「あの子はまだレッド1でしょ?」
「カウンター能力異常に高いですから、適役だと思います。それから、これはたぶん前例がないと思いますけど相楽瑞貴は性別なしです。当分のあいだ、男性は忌避の方向でお願いします」
「あ……わかり、ました」
背中がまだぞわぞわと寒くて、自分のことだとはわかっているけど何が話し合われているのかよくわからなかった。
「向坂とは同学年ですから、同じ授業を受けられます」
「ああ……そうね」
事務員はまたしばらくキーボードを使い、ちょっと手を止めた。
「向坂さん、これが初めての指導後見だけど、大丈夫かしら?」
「性向は合ってると思います」
梓がそう言うと、事務員はちょっと考えた様子だった。
「向坂さんの支援は?」
「私が付きます」
「レッドって……どんな、区別。されてるんですか?」
事務所から、梓の後ろについて寮へ歩きながら聞いてみた。梓は付き添いと言うよりも、自分を監視するために付いているのだろう。
「攻撃性向のこと。レッド1は攻撃性向と特殊能力を自制できているか、自制しつつある状態。レッド2は自制できていないか、そもそも自分の能力をわかっていない」
ちょっと待って、またきいてみた。
「レッドの3は?」
「自分の力をわかっていて、意図して他人を傷つける。そしてそれを楽しむようなヤツ。ほとんどテロリストね」
そいつらがここでどんな扱いを受けるのか、興味はあったけど聞くのは恐かった。
「グリーン評価になったら普通の寮に入れるけど、レッドの間はちょっと不自由よ。そこはガマンしなさい」
寮の入口は自動ドアだったけど、ガラスは事務室にあったのと同じだ。防弾・思念波遮断のやつ、それと同じ自動ドアふたつ通ってようやくロビー。そこには男子が2人いたけど、梓と自分を見るとどこかへ行った。露骨に避けられたような気がした。
エレベーターはなくて、3階までは階段。やっとまともに動くようになった脚が、またガタガタになる。
「ここがあんたの部屋よ」
部屋にはベッドと狭い机、無愛想なロッカーがあるだけだ。元は白かったらしい窓のカーテンはまだらに黄ばんでいる。窓は開かないらしくて、外側にはツタ模様の鉄格子がはまっている。
それより嫌なのは、ドアに大きな窓がついていて廊下から中が見えてしまうことだ。カーテンは外についている、監視用の窓なのだ。
「事務の人が説明したこと、どこまで覚えてる?」
ぎしぎし鳴る椅子に腰を下ろして梓が聞いた。ほかに椅子はないから、自分はベッドに腰掛けた。マットレスは固くて、体が痛くなりそうだ。
「あの……拒否できないって。そこまで、しか……」
こわごわ言うと、梓は小さく頷いた。
「あんたは、書類の上では大楠学園中等科の2年に転校したことになる。授業は下にある自習室で、大楠学園から中継されるリモート授業を受けるの」
「大楠、学園って……ここじゃなく?」
「あっちは普通の人間が行く学校よ」
梓がちょっと窓の方に首を傾けた。格子越しに見える木の枝、その隙間から学校のグラウンドみたいなものが見える。梓は脚を組んで、両手を膝に乗せちょっとこっちに顔を寄せた。
「あなたの成績がどんなだったか知らないけど、中等科は普通に卒業できると思う。そうしたらそのまま大楠学園高等科に入学するのよ。高等科はリモートか通信制を選べるわ」
「それじゃ……こっちでは、何するんですか?」
「ここは異能学園よ。異能者の保護と能力の研究開発」
「保護じゃなくて……自分、拉致られたんですけど」
「自分がなにやったのか、考えて物言いなさい。あんたが行くとこはここか、あとは精神病院しかないんだから」
思い切り腹が立った。自分はイジメの被害者なのに。
「い……ジメた。やつ、ら……が……」
腹は立つけど、それを梓にぶつけてもムダだ。十倍くらいになって返される。
「そいつら、どうなったの?」
聞かれたけど、人に言えるようなことじゃなかった。それに、梓はもう知っている。
「言いなさい。無理に言わせることもできるよ」
「校舎の……三階から、飛び降り……と、グランド、の……照明。頭に、落ちて、きて……それと。自転車、で……川に、落ちて……」
10人、ぜんぶ話した。
「退学2人、まだ入院中1人、登校拒否2人。学校には来てるけど、なぜかまた飛び降りやらかした生徒もいたよね?」
頷くしかなかった。顔に嫌な汗がでてきた。
「あんたの想像したとおりになった……そうだよね?」
顔を床に向けたまま、何度か頷いた。汗がふたつみっつ、タイルに落ちる。滴がうごめいて、集まってひとつになった。線画のパラパラ漫画のような動きで、滴は人のようなかたちになった。『あれ』は、まだ付いてきている。
『アイツを、眠らせろ』
命じてみた。エスパーを相手にできるかどうか、試してみてもいい。
人の形をしていた滴が、霧の固まりのように変化して舞い上がる。それが梓の顔にまとわりついた。梓の眼がゆっくり半眼になる、効いたのか。
そう思って腰を浮かせかけた瞬間、霧の固まりがはね返されたみたいに戻って来た。顔中にまるで氷の針が刺さったような痛みが走る。
「うっ!」
思わず顔を押さえてベッドに倒れ込んでしまった。
「お遊び程度の力でどうなると思ってるの?」
梓の声が、すごく遠くで聞こえるような気がした。
「意外だわ、あんたは精神コントロールと物質操作を同時にやるんだ。ダブルスピリットかもね」
『ダブル……スピリットって、なに?』
頭の中では質問していたけど、声にはならなかった。体中の力が抜けている。
『やばい……力……2回も、使ったから……』
普段でも『想像』を2度やった後は、もう口を利くのも嫌になるくらい疲れる。今日は朝から車椅子に縛りつけられてここへ連行されて、そのうえ梓からカウンターを二発もくらってしまった。たぶん体力リミットを越している。
「起きなさい、そろそろ授業が終わる……どうしたの?」
「起き……ら、れ、ない……」
「えっ?」
職員らしい人に背負われて保健室に連れて行かれた。保健室と言うよりも、そこは完全に病院だった。ドクターがいて看護師がいて、血を抜かれて心電図まで検査された。
「朝は食べた?」
ベッドに寝たままドクターに問診を受ける。
「いえ……」
朝食なんて、もう2年くらい食べたことがない。
血液のアルブミンがどうとか、看護師がドクターに報告しているのをぼーっと聞いていた。診察の結果は『栄養失調』だった。自分でもわかっているから驚かない。学校でも身長は同学年の女子なみ、体重は女子以下だ。
「食事は? どんな状態?」
「あの……」
食事が学校の給食だけの日が週に3日はある。土日で母親が働きに出ている日なんか、カップ麺かお菓子ぐらいしか食べない。そう説明するとドクターが呆れていた。母子家庭で家が貧乏だってこともあるけど、ギリギリの食べ物で過ごしているのは自分の意思だ。
点滴を2本打たれて、結局そのまま入院みたいな状態になった。
「ひどい……状態……」
点滴がポタポタ落ちるのをぼーっと見ながら独り言を言った。ここへ連れて来られて、最悪に危険と決めつけられて。あとは何がなんだかわからない。
『世界の、不幸を……ここに、集めよう。すべての、不幸は、ここから……始まる』
母が好きでよく見ていたミュージカル。昔の、どこかの女王様が死に神に愛されて、女王様は死なないけど国が滅亡していく話し。その歌を思い出して小さな声で口ずさんだ。メロディーも歌詞もいい加減にしか記憶していない。
「こんなとこ……抜け出してやる。絶対」
点滴に薬が入っていたのか、どこかに吸い込まれるような感じで意識が途切れた。