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最終話 だから、生きて往く

 西暦二六五八年三月。ウラジオストク沖、ルースキー島。


 東ボスポラス海峡からの海風が唸る崖の上にある己の別荘に、いまや、連合国に囚われの身となったセルジオ・タハ将軍は密かに幽閉されていた。

 彼が、自らの指示した「月の裏側」の壊滅に失敗したと知ったのは、そこに送ったはずの栗色の髪の青年が、軍服でなく私服を身に纏って彼の前に姿を現した時だ。


 それは、シベリアの冬の風が緩み始める、初春の日のことだった。タハは自分が死地へと追放した青年将校が、彼が殺害するはずだった娘、さらには、「蒼い羽」のリーダーを伴って面会に訪れたのを見て、唇を薄く歪ませた。それは嘲笑、それも、他でもない自分への嘲りの笑み他ならない。


 ヴィクトルは、己が父親のように慕っていた男が、虜囚の身になりながらも、その顔に憔悴の色が見えないことに、まずは安堵の息を漏らした。我ながら人のいいことだ、と内心思わずにはいられなかったが。

 だが、この期に及んでも、彼は、どうしても心からこの男を憎むことができないでいる。そしてそれは、ヴィクトルの横に立つアイリーンも同じだった。

 だから、アイリーンはヴィクトルが数多の感情を堪えながら、タハにこう宣告するのを、複雑極まりない心情で、ただ、黙って見守るしかなかった。


「閣下。もはやユーラシア革命軍政府に国家としての形態を保つ力はありません。なにより、閣下の犯した過ちに対する自浄効果は、望むべくもない。だとしたら、閣下のすべきことは………お分かりでしょう」

「ヴィクトル。私に連合国の裁きを受けろというのだな」


 書斎の机の前に座した最高権力者は、冷徹な青年の宣告に、さして動じることなく、さらり、と語を返した。かつては息子のように思っていた目前の若者を、どこか懐かしそうな目で見つめながら。


「そうです。私は、そのために、あらゆる協力をする覚悟です。閣下の親衛隊員としてではなく、ターンの被験体のひとりとして」


 ヴィクトルもまた、その懐かしい眼差しを受け止めながらも、訥々と答える。訥々としつつも、揺るぎない意志を込めて。

 ややもって、タハがはっきりとした声でヴィクトルに応じた。その声音にやや、苦笑いの気配を感じたのは、果たして、ヴィクトルひとりの気のせいだったのだろうか。


「……そうか。お前の生きたいように、生きたまえ、ヴィクトル」


 それから、タハはゆっくりと書斎の椅子から立ち上がりながら、ちいさく、こう零した。


「私はお前を月の裏側に送った。しかし、矛盾しているようだが、私は、お前が、お前の父のような運命を辿らないで良かったと、今は思っているよ」


 そしてそれから、タハは静かにアイリーンに視線を投げる。


「私は結局、君の「あしながおじさん」にはなれなかったな」


 アイリーンは、タハの言葉に菫色の瞳を瞬かせる。そんな彼女に、タハは今度こそはっきりと、苦しげな笑みを顔に湛えて、こう呟いた。


「アイリーン、私は、君の父が羨ましい。私はたくさんの罪を犯した。だが、罪を重ねることなく、真摯に己と向き合うことで生を紡ぎたかった、とも、いまさらだが思わぬこともない」

「……閣下」

「何を都合のいいことを、と君は思うだろうが、それもまた、私の本音なのだよ」


 別荘の窓からシベリアの弱々しい春のひかりが差し込む。そのなかで俯くタハの影は、これまでになく頼りなげに、アイリーンの瞳に映った。そんな彼にどう声をかければいいか分からず、彼女は暫し、考え込む。

 そして、十数秒ののち、アイリーンは、そのとき思ったことを素直に口にした。


「では、閣下、いまからそれを、やればいいのではないですか? 私の父のように」

「君の父のように?」

「はい、そうです。私の父のように、です」


 タハの前に立つアイリーンの顔は、どこまでも真摯だった。それを見て、タハは、何かに納得したように、大きくひとつ、頷く。


 そして、彼はそのまま、書斎の扉の前に立っていたリントネンのもとに悠然と歩を進めた。リントネンもまた無言のまま、タハの顔を直視し、それから、ゆっくり扉を開ける。

 廊下には連合国の幹部将校と、その配下の兵士数名がタハを待ち受けていた。タハは足取りを乱さぬまま、扉の外へと歩み出て行く。


 そのとき、彼を呼び止める声がした。ヴィクトルだった。タハは立ち止まり、視線を彼の顔に投げる。


「閣下。ひとつだけ、最後に質問したいのですが」

「なんだね、ヴィクトル」

「なぜ、閣下は、アイリーンに、月で彼女の母と面会させる猶予を与えたのですか? 被験体の存在を知った彼女を殺すには、地球でも事足りた。だとすれば、わざわざ月で殺す必要はなかったはずです。閣下には、現況が一刻を争う状況であることくらいは分かっていたのでしょう?」

「……」

「アイリーンに猶予を与えなければ、被験体の抹殺は間に合っていたかもしれません。それなのに、なぜ。私にはこの謎が、どう考えても、解けないのです」


 ヴィクトルの低い声が、タハとアイリーン、リントネン、そして連合国の将校と兵士の間に響き渡る。タハはその問いに、少し考え込むような仕草をした後、薄い笑みを頬に浮かべて、こう答えた。


「そのことは、実は、私も分からないのだよ。ヴィクトル」

「え……」

「確かに、お前の言うとおりなんだ。アイリーンを月に行かせる。母親と会わせる。考えてみれば、それは戦略的にまったく必要のないことだった。寧ろ、自分の首を絞めることとなる。それは分かっていたんだ、頭の隅では。だが、私は何故だが……それが必要だと感じた。自分でも分からん。だけど、なぜか、そうしなければ、いけないような気がした。本当に、それだけなのだよ」

「……閣下」

「そういうことだ。人間とは、よく分からん生き物だな、ヴィクトル」


 そして、タハはそれだけ言うと、扉の向こうに姿を消していった。タハと、彼を取り囲んだ兵士らしき複数の靴音が響きわたり、やがて遠ざかっていく。書斎に残されたリントネン、ヴィクトル、アイリーンは、何も口にすることなく、音が消え失せても、それぞれの表情でその場に佇んでいた。



 永遠に続くかとも思われた沈黙を打ち破ったのは、リントネンの声だった。


「お嬢さん、カナデ・ハーンに会っていけ」

「え? カナデおばさんに?」


 アイリーンがリントネンの思いもしない言葉に、慌てて顔を上げる。すると、赤い髪の男の顔が見えた。その無精髭に歪んだ唇は、いつものことだが、多少人が悪く見える。


「この別荘の地下室に、タハが遺体を冷凍保存しておいていた。彼女の葬儀、および埋葬は、俺たちの方で改めて考えなきゃならねぇが、ひとまず彼女にはここで眠ってもらっているんだ。それともなんだぁ、会いたくないかぁ?」

「まさか! 会います! 会いたいです!」


 アイリーンは慌ててリントネンの揶揄いに満ちた言葉に答える。するとリントネンは、不敵な笑いのまま、胸ポケットからテレフォンを取り出して、何やら部下に指示を出す。

 そして、それを終えると、表情を少し改め、アイリーンに向き合いこう言葉を投げかけた。


「なぁ、お嬢さん。なんせ、こんな暴力に満ちた世の中だ。国やそれに準じた権力による大きな暴力の連鎖からは、結局、俺たちは逃げられないのかもしれん。しかし、個々人の間での連鎖は、その人間の意志により、なんとか止めうることはできる」

「リントネンさん……」

「だとしたらだ、アイリーン、君はこれからもその道を選んでいけ。それを繰り返していくことで、いつか、ジーン・カナハラが望んだような世界に、俺らは立ち返ることが出来るかも知れないからな」


 リントネンの言葉のなかに、突如出てきた父の名前に、アイリーンは目を見開く。

 すると、リントネンは表情を崩して、おどけた口調でこんなことを言って、アイリーンをまたも慌てさせた。


「なにより俺はさぁ、彼氏どのといっしょに、お嬢さんがそういう未来を作ってくれることを、期待してるぜぇ」

「えっ、別にヴィクトルとは、そういう仲じゃ……!」

「……いい加減にしろ! リントネン!」


 その会話に耐えられないとばかりに、ヴィクトルも大声を上げる。彼の顔は真っ赤だ。

 次の瞬間、リントネンの部下らしき女性が室内に入ってきた。そのおかげで、ヴィクトルはなんとかリントネンに対するそれ以上の罵声を、堪えることができたのだった。


 それから、女性に案内されるがままに、アイリーンとヴィクトルは、カナデの遺体が安置されているという地下室へと歩を進めた。

 すると、地下室に程近い廊下で、ふたりとすれ違った人影があった。金髪の中年男性だった。アイリーンは、その琥珀色の瞳にどこか既視感があって、彼が通り過ぎたあと、案内の女性に尋ねる。


「あの男性は?」

「カナデ・ハーン女史の息子さんだそうです」

「息子? おばさんに子どもがいたんですか? 初めて知りました」

「詳しくは存じませんが、タハ将軍が女史の死後に連絡を取ったと、私は聞いています」

「そうなんですか……」


 まったく知らなかった事実に驚きながら、アイリーンとヴィクトルは女性の後に続く。

 やがてたどり着いた地下室のなかには、香ばしい花の香りが漂っていた。見れば、ちいさな地下室の床には、白い百合の花束が置かれている。そして、部屋の中心に置かれた透明のカプセルのなかに、物言わぬカナデが横たわっていた。


 女性が一礼して地下室を出ていく。

 花が匂い立つ部屋の中には、アイリーンとヴィクトル、そしてカナデのみが残された。


 アイリーンはカプセル越しに、穏やかに眠るカナデを覗き込む。

 懐かしい顔が、そこにあった。艶やかな長い白髪、皺が刻まれ、目を瞑っても、なお、意志の強さを感じさせる凛とした佇まい。しかし、自分を優しく包んでくれた笑みがそこにはもはやないことに、アイリーンの胸は言葉に表せぬ寂しさに覆われた。涙が瞳に滲む。

 しかし、彼女はつん、と痛む鼻の奥からの痛みを堪えながら、カナデに話しかけた。


「……カナデおばさん、お久しぶりです。ひとりにしちゃって、ごめんね」


 むろん、カナデは何も答えない。だが、アイリーンには聞こえたような気がした。

 別に寂しくないわよ、大丈夫よ、とカナデが気丈に笑う声が。

 それに答えるように、アイリーンは語を継ぐ。


「あのね、私、月に行ってきたの。そこで、父さんのことを、色々、考えたわ。そう、母に会って、私は父から愛されていたことを知ったの、おばさんからいつも、言われていたように、たしかに、私は父からの大きな愛で包まれていた」


 カナデが、そうよ、その通りだったでしょう、と微笑む姿がアイリーンの脳裏に浮かぶ。その面影を思い浮かべながら、彼女は泣くまいと必死にカナデに語りかける。


「……でも、父はそれゆえ、罪を犯した。そのことを考えると、いまでも複雑な気持ちになるわ。だから、まだ、分からないことも多い。これから、私、いろんな父の姿を知っていくんだと思う。だけど、どんな父であったとしても……」


 そこで一旦、アイリーンは言葉を区切った。そして、大きく深呼吸して、また唇を動かす。

 これが伝えたかったの、と言わんばかりに、ゆっくり、はっきりと。


「私は、分からないなりに、父を愛してみたい。いつか私も、それほどまでに、大きな愛を知りたいから」


 それを聞いたカナデの唇が、笑みを閃かせた気がした。気のせいでしかないと、分かってはいたけど、アイリーンには、そう見えた。そのことに、彼女は深く満足する。

 そして、万感の思いを込めて、アイリーンは囁いた。

 愛しい人に。自分を慈しみ、育んでくれた大切な人に。


「ありがとう。カナデおばさん」


 堪えきれず、アイリーンの菫色の瞳から一筋の涙が溢れた。すると、カプセルの前に跪く自分の肩に、手を置く者があった。

 ヴィクトルがアイリーンの肩に手を差し伸べていた。まだ少し赤い顔に、静かな笑みを湛えながら。

 アイリーンもごく自然に、彼の腕に自分の手を重ねる。

 そして、アイリーンはヴィクトルの腕に引き上げられるように立ち上がり、地下室を後にした。



 タハの別荘から外に出ると、オホーツク海の海風が、勢いよくアイリーンとヴィクトルの身体を包んだ。風はアイリーンの茶色のくせ毛と、ヴィクトルの栗色の短髪を巻き上げ、頬を撫で、白いダウンとスウェードの茶色いコートを翻す。春といえども、海風はいまだ冷気を孕んでおり、アイリーンは思わず、ぶるっ、と身体を震わせた。

 すると、さりげなさを装って、ヴィクトルが彼女の身体を引き寄せる。


「……こうすれば少しは暖かいだろう」

「……うん」


 それからふたりは、無言のまま肩を寄せ合って歩いた。いつか、ふたりきりの会話を初めて交わした海岸へと向かって、なんとはなしに、ふたりは遊歩道を辿る。その途中で、不意にヴィクトルが呟いた。


「罪を犯すほどの、大きな愛、か……」


 その呟きに、アイリーンが何気なく頷く。だが、彼女はヴィクトルの次の言葉を聞いて、腰が抜けんばかりに驚くこととなる。


「それは、俺も知りたいんだ。それほどまでの愛というものを。それも……、その、できることなら、アイリーン、君と……」

「えっ!?」


 ふたりの足は海岸にたどり着いていた。そこでは海風に加えて、海鳥の鳴き声、さらには波の音も渦巻いている。なので、アイリーンはヴィクトルの言葉を、何かの聞き違いかと思った。


 しかし、聞き違いじゃない、とばかりに、ヴィクトルが思い切りよくアイリーンの白いダウンに包まれた肢体を抱き寄せた。そして青い瞳にこれ以上なく真摯なひかりを湛えて、至近距離に迫ったアイリーンの菫色の瞳を見つめ、問う。


「……俺が嫌いか?」

「そうじゃない! そうじゃないわ! ヴィクトル! 私、あなたのことが好きよ! でも、その、そんな、そんなに、顔近づけられても、その、心の準備ってものが……!」


 すると、ヴィクトルはさらにアイリーンが仰天する事実を白状したのだった。

 彼女の瞳から目を背け、いささか気まずい顔をしながら、彼はこう呟いた。


「キスなら……もう済ませてるよ。すまん、アイリーン」

「えーっ! ヴィクトル、なにそれ!」


 だが、アイリーンが思わず上げた素っ頓狂な声は、ヴィクトルによって半ば無理矢理止められた。叫ぶアイリーンの唇を、ヴィクトルのそれが封じたのだ。そしてヴィクトルは、頼むからもう何も聞いてくれるな、との言葉代わりに、唇をなおも重ね続ける。


 アイリーンの強張った身体から力が抜けていく。それと同時に、はじめての感覚の心地よさに、じわじわ、心が蕩けていく。もう、彼女の耳には風の音も、波の音も、なにも聞こえない。


 気がつけば、ただただ、アイリーンとヴィクトルは、幸福に目を閉じて、口づけを交わしていた。


「行こう」


 やがて、ヴィクトルが顔を離しながらアイリーンに囁いた。


「俺とまた、お互いの父のことを語りたいんだろう?」

「……ええ。あなたとは、まだ、語ることがいっぱいあるわね」

「そうだよな。じゃあ、アイスクリームでも食べながら、話そう」

「そうね、どこか暖かいところで。ストロベリーとブルーベリー、両方あるといいな」


 空高くから真昼の白い月が、始まったばかりの恋人たちを、慈しむように見下ろしていた。


 その下を、ふたつの命は手を取り合い、ともに、海風のなかを歩いて行く。





第二部「その娘の物語」完


『寄る辺なきエトランゼ』 了

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