施設の地下二階、月面の地中深くに何者かの足音が響き渡る。
だが、カノンは、廊下から聞こえるそれが誰のものかは、さして気にしなかった。探るまでもないと思ったからだ。このガス精製施設に入れる虹彩を持つ人間なら、彼しかいなかった。他の数少ない保護施設職員が、被験体の蜂起の対応に追われている現況にあっては、なおさらだ。
果たして、精製施設の最奥の扉がスライドすると同時に、部屋に駆け込んできた影のスピードは、通常の人間のそれを遥かに超えるものだった。そしてその人影は、カノンの予想に違わず、栗色の短髪の青年となって彼女の目前に現われる。他でもない、ヴィクトルだ。
彼女は、息を切らしながら自分を睨み付ける彼の青い目を見て、皮肉げに笑った。作戦の首尾を問うまでもなかった。しかし、カノンはふくよかな頬を笑いに歪ませながら、敢えて彼をこう質した。聞くまでもないことだと、深く承知はしていたけれど。
「結局、あなたは、アイリーン・カナハラを殺せなかったのね。ヴィクトル」
対して、息を弾ませるヴィクトルは無言だ。彼もまた、敢えて答えないことで、カノンの言葉を肯定しようとしたのだ。ふたりの間に言葉は漂わず、ただ、精製機から響く無機質な機械音のみが響き渡っている。
機械音を耳にしながら、ヴィクトルは額を流れる汗を拭った。全速力で駆けてきたからだけではない汗が全身に滲んでいる。それは、己に残された時間がないことへの焦りからだと、頭では認識していた。しかし、焦りながらも、彼は、今もってカノンをどう説得すれば良いか、適切な言葉が思い浮かばない。
ガスの保護棟への流出は、月面時間、午後十一時。
壁に掛かった時計を見上げれば、もう針は十時五十分を指している。
迷った挙句、結局彼は、一番安直な台詞を口にした。安直ではあるが、この事態を止めるに当たっては、本質に当たる言葉を。
「カノン保護員。無益なことは止めよう。どんな理屈があるにしろ、俺たちがやろうとしていることは大量殺人だ。許されることじゃ、ない」
「許されること? ヴィクトル、なにを言っているの。今さら
カノンが金髪を揺らして、これは可笑しいわ、といわんばかりに冷たく言い放つ。
「私たちの判断基準は、人道的に許されるかどうか、なんかじゃないでしょう? 国家が……、いいえ、閣下がそれを望んだか、望まなかったか。それだけじゃなかったかしら。違う?」
「……今まではそうだったかもしれん。だが、俺はもう、それからは決別したいんだ」
「ふうん」
カノンの微笑みはなおも皮肉気だ。彼女はヴィクトルを
「あの娘を愛しちゃったのねぇ、ヴィクトル。だったら、私の気持ちも分かるんじゃないかしら?」
「あなたの?」
「そうよ、私がどんな思いで、閣下を愛してきたか」
「……だったら、なおのこと、この作戦を実行する意味はない。あなたは知らされてないだろうが、閣下の身柄はもう連合国の手中にあるとの情報を得た。そうなれば、被験体を抹殺してしまえば、閣下の立場はとてつもなく危うくなる、だから……」
「ばっか、ねえ。だからこそ、作戦は遂行しなきゃいけないのよ」
「えっ……」
ヴィクトルは絶句した。そして彼は、自分が賭に負けたことを知る。タハの身柄の安全を訴求すること、それだけがカノンを説得しうる有効なカードだとヴィクトルは思っていたのだ。
それが通じなかったことに呆然とした彼は、青い瞳を見開いて、カノンを凝視するしか術がなかった。
彼女の嘲りが耳を擽る。
「これだから男ってのは、もの分かりが悪くて、嫌だわ」
「なぜだ? あなたは閣下を愛していたのではないのか?」
「ああ、本当に男って馬鹿よね。一度、女に愛されれば、その愛情は永遠だなんて、信じているのかしら? しかもそれが、自分が冷たく捨てた女だったとしても。勘違いも甚だしいわ、吐き気がする」
「カノン保護員……」
「さっきこの建物を揺るがしていた爆発音は、この施設を攻撃してきた連合国のものでしょう? なら、それは我が軍が月の制空権を失ったってことよね。それくらい急激に我が国の軍事力が弱体化したならば、その原因が、閣下が連合国の手中にあることくらいは、私でも推測が付くわよ」
「……!」
「だったら、なおのこと、被験体は抹殺しなきゃいけないわ。あの人の罪を
カノンの目はいまや禍々しいひかりに揺れている。
ヴィクトルは思いもしないカノンの苛烈な憎悪を前に、背筋を震わせつつ、時計をちら、と見る。
午後十時五十四分。あと、残り時間は六分。
だが、次の瞬間、ヴィクトルの目は、時計の横にある精製機の制御盤に奪われた。そこには赤いランプがふたつ、輝いていた。そのランプのひかりが意味するものを察し、彼は思わずカノンに大声を張り上げた。
「ガスを流すのは、まずは保護棟だけの予定だっただろう! なぜこの管理棟にも流れる設定になっている!? このままだと、あなたも含めて、この施設にいる人間は一網打尽じゃないか!」
「やっと気付いたの? 思ったより頭が悪いわね、ヴィクトル。それでよく閣下の秘蔵っ子でいられたものね」
機械が無機質に唸る音が、「そのとき」を前に少しずつ高まっていく。それは不気味な殺戮へのカウントダウンだった。
ヴィクトルが腰のホルダーから銃を取り出し、足早にカノンのもとに駆け寄ると、銃口を彼女の胸に押しつける。
「カノン保護員! 機械を止めるパス・ワードを教えろ! すぐにだ!」
「いやよ。ヴィクトル、あなたも、私といっしょに天国へ行きましょ。まあ天国なんて、私たちには無理なんでしょうけど、ここではないどこかに逝ってしまいましょうよ、大好きな閣下を置いて。ああ、でもあなたにはもう、大切なあの娘がいるわね。でも良かったわね、これでアイリーンとも、いっしょに死ねるんだから」
「やめろ! 彼女にはなんの罪もないんだ!」
「そうね。だけれど、あなたは、彼女を
「……やめろと言っているだろうが!」
ヴィクトルは激情のあまり、カノンの襟首に片手を伸ばし、彼女を激しく揺さぶった。
その刹那、カノンの身体から、ふわり、となにか、その場にそぐわぬ花のような香りが匂い立った。どこかで嗅いだことのある匂いだ、と記憶を反芻し、それが昔、執務室に座するタハの軍服からよく匂い立っていた香水の残り香であることに気が付き、息をのむ。
この期に及んで、タハの好きだったであろう香水を身に纏っているカノンに、深い哀惜を感じて、一瞬、ヴィクトルの力が緩む。
その隙をカノンは見のがさなかった。彼女は思い切りよく、渾身の力でヴィクトルを突き飛ばす。その衝撃で床に転げた銃を、カノンがすかさず拾い上げる。
それから、カノンはゆっくりとした仕草で銃口をヴィクトルに向ける。
いや。それもまた、一瞬のことだった。
それから、すぐに、彼女は、これまたゆっくりとしたスピードで銃を頭上にかざし、銃口を自分の頭に、静かに突きつけた。
「やめるんだ! カノン!」
絶叫するヴィクトルに対して、カノンの口調ははどこまでも冷静そのものだった。その眼差しも。
「閣下に愛されているあなたに、言われたくないわね」
「……違う! 俺が愛されていたら、
時計を見れば、午後十時五十六分。
ヴィクトルは叫びながらも、破滅の時が刻々と迫っていることに戦慄を覚えた。再び身体全体が汗でじっとりと濡れる。栗色の髪が、額に張り付く。
すると、彼の言葉を聞いたカノンの表情が僅かに和らいだ。そして彼女はふくよかな顔を微笑みで湛えて、ちいさくこう語を零した。
「……ヴィクトル、あなた、分かっているじゃないの」
「え?」
「あなたが求めているものは、ただひたすらに、私が望んだことよ」
午後十時五十七分。機械音はますますその音を大きく響かせている。だが、ヴィクトルはカノンの言葉の意味が分からず、青い瞳を瞬かせた。
彼は震える声でカノンに問いかける。
「望んだこと?」
「あなたなら、分かるでしょう」
カノンは微笑んだまま、引金にゆっくりと指を伸ばす。
「やめろ! カノン! 銃を手渡せ!」
「だって、あなたと私は、同じなのだから」
「同じって!? どういうことだ!」
しかし、ヴィクトルの最後の問いかけはカノンの耳に届いたのだろうか。
「さよなら、ヴィクトル」
ヴィクトルの言葉に重なるようにカノンがこう呟きながら、引金を引くのを、彼は見た。続いて、銃声とともに、彼女の頭が石榴のように砕け、血潮が宙に迸るのも。
午後十時五十八分。
機械音はもはや煩わしいほどの音量で部屋に鳴り響いている。脳髄をまき散らしながら、赤く染まった床に崩れ落ちたカノンと、言葉もなく呆然と立ち尽くすヴィクトルの間にも。
「くっ……!」
カノンの遺体を一瞥して、彼女の蘇生が不可能なことを悟ったヴィクトルは、彼女の身体を跳び越えて制御盤に向かい合った。そこにはカノンによる筆跡らしいいくつかのメモが転がっていたが、それらはどうやらこの作戦に関する覚え書きのようなもので、パス・ワードらしきものはない。しかし、ヴィクトルは諦めることも出来ず、そこに書かれた単語をディスプレイに打ち込み続ける。しかしながら、制御盤に煌々と光るふたつの赤いランプに変化はない。
そして、ほどなく、そのふたつのランプが、激しく点滅を始める。
流出装置の起動まで、あと一分を切った証、他ならなかった。
「畜生、俺はともかく、アイリーンを死なせてたまるか……!」
汗でディスプレイを操る指が滑る。そして、必死にカノンとの会話を脳内で反芻させる。
「思い出せ、思い出せ……! なにか、あそこにヒントが隠されているはずだ!」
――あなたが求めているものは、ただひたすらに、私が望んだことよ――。
――あなたなら、分かるでしょう――。
――だって、あなたと私は、同じなのだから――。
ランプの点滅が激しくなり、起動まで三十秒を切ったことをヴィクトルに教えてくる。彼は半ば混乱し、絶望に屈しそうになりながらも、必死に考え続ける。
「カノンが望んだこと……俺なら分かること……分かっていること……」
そう呟いた瞬間、ヴィクトルの脳に稲妻のようにある「言葉」が閃いた。
もっとも、それは「言葉」というより「叫び」に近いものだったが。
機械音の高まりから察するに、そのとき、残り時間は十秒あったか、どうか。
次の瞬間、ヴィクトルは躊躇わず、その「言葉」をディスプレイに、迸る激情のまま、勢いよく打ち込んだ。そして、目を瞑って、床にしゃがみ込む。彼には最後まで確信が持てなかったからだ。それが、果たして、正しいパス・ワードであったのかを。
だから、ヴィクトルは床に屈したまま、「そのとき」を待った。
しかし、一分経っても、二分経っても、何事も起こらない。あれだけ五月蝿く唸っていた機械音はいつのまにか消えていた。
彼はおそるおそる、立ち上がり、制御盤に視線を投げる。
赤いランプは、ふたつとも点滅を止め、いまはノーマルを示す状態の緑色を示していた。
「まさか、止まったのか……?」
そして、己が打ち込んだパス・ワードがいまだ光るディスプレイに、目を向ける。
“愛されたかった”
それが、ヴィクトルが迸る感情のままに、打ち込んだ「言葉」だった。
静寂を取り戻した部屋のなかで、ヴィクトルは、再びゆっくりと、床に座り込んだ。
――ああ……、みんな、みんな、そうなんだ……。俺も。そしてきっと……父も。
いつしか、喉からは嗚咽が漏れ、頬には涙が伝っている。
だが、ヴィクトルは涙も拭いもせず、しばし放心したように、思いを馳せていた。
父と自分のいままで、そして、これからに。
管理棟の廊下の奥からヴィクトルが無事な姿を現したとき、アイリーンの菫色の瞳は輝いた。
安堵のあまり、胸が高まる。気が付いたときには、茶色のくせ毛を揺らしながら、彼女の足は軽やかに床を蹴っていた。
「おーい、お嬢さん。嬉しいのは分かるがなぁ、あんまり派手にはしゃぐと傷が開くぞ、気をつけてくれよぉ」
「そうよ、手持ちの薬はもうないんだから」
背後からリントネンとレベッカの苦笑交じりの声が聞こえる。だが、彼女は構うことなく駆けた。
そして、ヴィクトルの身体に辿り着いたとき、彼がその逞しい両腕を自分の肩に、ついで、胴に回してきたことに何の違和感も嫌悪感も持たなかった。
だが、次の瞬間、自分が他ならぬヴィクトルに強く抱きしめられていることを認識するに及び、アイリーンの顔は真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと、ヴィクトル!」
しかし、ヴィクトルはアイリーンを腕から解こうとしなかった。むしろ、彼女を抱き寄せる力は強まるばかりだ。アイリーンは動揺しながら至近距離にあるヴィクトルの顔を、思わず眺める。
目を閉じたヴィクトルの表情は、アイリーンがそれまで見たどの顔よりも幸福そうで、かつ、穏やかさに満ちていた。それだけに、彼の頬がまたも泣き濡れていることをアイリーンは不思議に思い、その理由を問い質そうと彼女は唇を開きかける。
だが、その気配を察して、ヴィクトルがちいさく、囁いた。
「……アイリーン、何も聞かないで、いまはこうさせてくれないか……」
「う、うん……」
そうと言われては、アイリーンは彼に身を任せるしかない。それ以上に、アイリーンはヴィクトルのぬくもりが心地よかったので、そのままにすることにする。先ほど触れあわせた指の熱が心に蘇る。
すると、アイリーンもなんだか、彼と一緒に泣きたくなる。
結局、アイリーンは泣きはしなかった。しかし、彼の栗色の髪を撫でてみたいという衝動には抗わず、心のまま、そろそろとヴィクトルの頭に指を差し伸べる。
その瞬間、ヴィクトルがより幸せそうに顔を緩めたことに、アイリーンは気づけなかった。
「月の裏側」は、二度の殺戮を免れたのだ。
命は、保たれた。