手錠を外されたヴィクトルは、ふらふらと壁を支えにしながら立ち上がった。
レベッカに頭から床に叩きつけられた衝撃は、なおも彼の歩みをおぼつかないものにさせている。それを見たアイリーンは、思わず、ヴィクトルの腕を掴んだ。
「ヴィクトル、どこ行くの? 無理しないで」
「アイリーン……」
ヴィクトルの青い瞳がアイリーンの菫色の瞳と絡み合う。その目は先ほどと打って変わって、落ち着いたひかりに揺れている。
自分を撃った時の、あの獣のような目とは大きく異なっていて、そのことをアイリーンは安堵したが、次に彼が発した言葉に、彼女は思わず息を詰まらせた。
「聞いた通りだ。もう、時間がないんだ。計画通りなら、あと十五分ほどでカノン保護員が保護棟にガスを流す時刻だ。まだ、あそこにはこの施設を脱出できていない被験体がたくさんいる。そうだろう? レベッカ・カナハラ」
「……そうよ、リントネン総司令官が手配して、近くの月面に着陸させた連合軍の
話を振られたレベッカが、顔を強張らせてヴィクトルの問いに答える。
「だとしたら、早く止めに行かねば。ガスの精製施設は管理棟の地下二階にある。カノン保護員は今この瞬間も、ガスを流す準備をしているはずだ」
「でも、ヴィクトル、その身体で……、あなたまさか、ひとりで止めに行くと言うの?」
「ああ、それが君に対しての償いになるなら、命は惜しくない」
果たして、声を荒げたアイリーンに対して、ヴィクトルの言葉は穏やかだった。アイリーンは再び絶句する。そして、瞳だけでなく、その表情全体が、どこまでも静謐な様相に移り変わっていることに気づき、彼の覚悟がいかに重いかを、察する。
償い。
他でもない己を、殺そうとしたことへの、償い。
それが彼を、無謀ともいえる行動に駆り立てようとしている。
そのことが、アイリーンの心をとてつもなく疼かせる。思わず彼女は、そのまま部屋から去ろうとするヴィクトルの腕に再び縋ろうとした。
しかし、そのアイリーンの手を誰がが掴んだ。リントネンだった。
「お嬢さん。彼を、行かせてやれ」
「リントネンさん、でも……」
「これは、彼が乗り越えなきゃいけない試練なんだよ、彼がこのさき、生きていくために。それに俺たちが総勢で乗り込んだところで、パス・ワードをカノンの口から引き出せるわけでもない。彼女が死ぬことをなんとも思っていない以上、同僚からの説得に望みを掛けるしかないのさ」
そう語るリントネンの瞳からも、いつしか怒りの焔は消えている。赤い髪の男は淡々とした口調のまま、静かに語を継ぐ。ヴィクトルに、コートの懐からさし出した新しい銃を手渡しながら。
「俺たちはもう、彼を信じるしかないところまで来ているんだ。だから、彼氏どのを行かせてやれ。それに、お嬢さん、君は彼のことを信じるに値する人間だと思っているんだろ?」
「それはそうですが……!」
次の瞬間、叫ぶアイリーンの鼓膜を、リントネンから銃を受け取ったヴィクトルの声が打つ。見れば、彼は身体を半分廊下に滑り出させながらも、アイリーンの顔を真っ直ぐ見つめている。
そして、ヴィクトルは微かに、笑った。こんな状況下だというのに。
だが、ヴィクトルは確かに、青い目を細め、笑っていた。
「ありがとう。アイリーン。こんな俺を、信じてくれて」
「ヴィクトル……」
「安心してくれ、俺は必ず君のもとに戻ってくる。だから、お願いだ。俺の無事をここで祈っていてくれ」
そして、ヴィクトルは何も言葉を継げずにいるアイリーンに、栗色の短髪を揺らしながら、こう、告げた。これまた、その場にそぐわぬ柔らかな口調で。
「アイリーン、帰ってきたら、またお互いの父の話の続きをしよう」
ヴィクトルのその言葉を聞いて、アイリーンの菫色の瞳がじわっ、と滲む。それを見てヴィクトルは困ったように優しく唇を歪める。そしてそのまま、こう彼女を諭す。
「そんな顔をしないでくれ、これは約束だ」
「うん……じゃあ、あの、その証に」
「なんだ?」
「指切りげんまん、して……くれる?」
アイリーンはそう言いながら、おずおずと右手の小指をヴィクトルの前に差し出した。それを見たヴィクトルが苦笑する。そして、自分も同じ手の小指を差し出すと、何も言わずに、アイリーンのそれに、そっ、と絡ませた。
熱が、触れ合う。指を通して、互いに愛しいと思う者同士の体温が。
十数秒ののち、ふたりは、どちらからともかく、指を静かに離す。
次の瞬間、ヴィクトルは身を翻し、ドアの向こうに姿を消し、廊下を全速力で駆けていった。
「ヴィクトル! 約束だからね!」
そのアイリーンの声が、彼の耳に届いたかは、彼女にはもう、分からない。
ヴィクトルは振り向くことを、しなかった。ただひたすらに、地下二階の目的地に向かって風のような早さで駆けた。痛めつけられた脳髄はまだ、じんじんと疼く。しかし、彼は足を止めることをしなかった。
――俺は、自分の人生を、手に入れる。そして、アイリーンと……!
胸にたぎるその想いは、彼が生まれてことから得たことのない、鮮やかなひかりに満ちた未来予想図だった。
「さあて、これで俺たちのすることは、あいつが上手くやってくれることを、ここでただ待つくらいだなぁ」
呆然と、まだヴィクトルの消えていったドアに瞳を投げていたアイリーンの肩を、リントネンが、ぽん、と叩いた。見上げたリントネンの緑の瞳は、これは
「だけれど、リントネン総司令官。あなたは、連合国の進攻に付き合って
すると、リントネンは肩をすくめて、ふっ、と笑い、こう言った。ひとつに纏めた赤い髪が、ふわっ、と揺れる。
「それは大丈夫さ。俺ひとりいなくなったところで、組織は崩れやしない。個人崇拝で成り立ってるどこかの国家とは違うんだ、俺たちの組織は。それに俺がどうこうなっても影響ないほどに、もう俺らは連合国に踏み入っているのさ」
彼はそこで一旦、言葉を切ると、天井に瞳を投げ、皮肉そうに、おどけた口調でこう付け加えるのも忘れなかった。
「人間の歴史ってやつは、進化と退化を繰り返すもんだがなぁ、それでも、俺は
「命は、引き継がれる……」
アイリーンはなんとはなしに、リントネンの言葉を復唱したが、次の瞬間には、その言葉の重みに胸を、ずん、と抉られた。
そのとき彼女の心に浮かんでいたのは、自分を穏やかな瞳で見つめる、亡き父の眼差し、他ならなかった。
「……だから、私は、今ここにいるんだわ」
「どうしたの、アイリーン。まだ、傷が痛む?」
突然、ちいさく語を零した愛娘に、レベッカが視線を投げる。レベッカの視界に映るアイリーンは、いまやはっきりと菫色の瞳を涙に濡らしていた。レベッカは思わず、娘の顔を覗き込む。対してアイリーンは涙を流しながらも、その表情は明るい。
「違うの。違うの。あのね、お母さん……」
「なあに? アイリーン」
「お母さん、お父さんと出会ってくれて、ありがとう」
レベッカはその言葉に一瞬虚を突かれたようになったが、それが意味するものを悟り、アイリーンの頭に両手を差し伸べ、彼女を抱き寄せる。己と良く似た茶色のくせ毛ごと、愛しい我が子を。
「あなたこそ、私の愛した人を好きになってくれて、ありがとう」
離ればなれになっていた長い年月に思いを馳せながら、その分の愛情をこれ以上なく込めて、レベッカは愛娘の耳もとで囁いた。