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第66話 己の人生を手に入れろ

「いいか、ヴィクトル・ボイツェフ、よく聞け。さっきレベッカがアイリーンに打ったのは、お前も世話になってきた、ターン、もしくはリ・ターンの後遺症を止める薬を濃縮したものだ。あの薬は、被験体であるお前にはただの延命薬に過ぎないがな、普通の人間にとってはどんな蘇生術にも勝る万能薬なんだ。それも、即効性に極めて優れた」


 ヴィクトルの青い瞳が、かっ、とリントネンの顔をとらえた。

 一方、アイリーンは思わず自分の胸に目を向ける。なるほど、白いダウンは相変わらず血に濡れていたが、ヴィクトルに撃たれた銃槍はいまや完全に塞がれ、微かに動かすと痛みを感じる程度にまで落ち着いている。


「お前らは連合国のここへの進攻が近いと睨んで、被験体を抹殺にしようとしているがな、連合国が狙っているのはユーラシア革命軍による人権蹂躙の証拠だけじゃないんだよ。そうだ、もうひとつの目的は、この薬の奪取だ。そして俺たちは、それを手土産に連合国に協力を仰いでいる」

「なぜ……お前らは、そんな情報を手に入れられたんだ?」


 すると、それまでただ黙って荒れ狂うリントネンを見守っていたレベッカが口を開いた。


「私たち被験体に、「蒼い羽」が接触してきたのよ。だから、被験体関連の情報は彼ら、ついでは連合国に筒抜けも同じ。それだけでなく、政府の目を盗んで、密かに武器の提供も私たちにしてきていたわ。月の裏側に閉じ込めておけば安泰だと思ったあなた方が甘かった、そういうことね」

「なるほどな……」


 ヴィクトルは全てを悟り、がくり、と肩を落とした。なんてことはない、自分たちの動きはリントネンらを通じて連合国にすべて見透かされていたのだ。自分は泳がされていたも同じだった。そのことが腹立たしくも、なんとも可笑しく、彼は乾いた笑い声を思わず上げた。

 しかし、ヴィクトルの笑い声は次のリントネンの言葉にかき消されることとなる。


「それと、重要な知らせはまだある。これはまだ公には明らかにされていないが、ユーラシア革命軍政府最高指導者、セルジオ・タハ将軍の身柄はすでに連合国に捕縛されている。俺がワルシャワでしてきた野暮用は、俺らが掴んだユーラシア革命軍の軍事情報を確実に連合国政府に伝えることさ。その甲斐あって、連合国は南部戦線を視察中だった爺さんを強襲し、確保することに成功した」

「……なんだって……」

「まぁ、お前らのお仲間さんの抵抗は激しくてね、予想以上に時間がかかっちまって、双方とも相応の犠牲は出たがな。まあ、そういうわけで、ユーラシア革命軍政府はもう終わりだ。再起の道はない、そう心しろ」


 リントネンの飄々としながらも冷徹な声が告げた現実に、ヴィクトルの身体から、だらり、と力が抜ける。


 ――全ては、無駄だった。命を捧げてきた国家も、権力者も、全てが崩れ去った。……だとすれば俺は、何のために、生きたんだ? 何のために、アイリーンを殺してまで、生きようと? そして、死ぬことを受け入れようと……・?


 そう考えた瞬間、ヴィクトルの胸奥で何かが爆ぜた。彼の唇から絶叫が漏れた。部屋中にぐわんぐわんと、彼の声が木霊する。


「……だったら! 俺が生きている意味など何もないだろう! 俺たちの企みも罪も、みなお見通しなら、生かしておく価値もないだろうが! 殺せ! さっさと殺せよ!」

「ヴィクトル、そんな……!」


 アイリーンは、いまや震えてやまぬ、手錠をされたままの彼の手を思わず掴んだ。そして間近に見た彼の青い目から、滝のような涙が溢れ出ていることに気づいて、目を見張る。ヴィクトルは号泣しながら、アイリーンの手を振り払おうと腕を捩った。

 しかし、うまくいかない。力が、入らない。身体にまったく、力が入らない。アイリーンに掴まれた腕のぬくもりばかりが、胸に染み入る。

 それを感じると、なおも心が混乱して、止めどなく流れる涙を制御することもままならない。


 やがて、リントネンが赤い髪を掻き上げながら、ぼそり、と語を零した。


「そうは問屋がおろさんよ。ヴィクトル・ボイツェフ」

「何でだよ!」

「お前さんにチャンスはまだある。それに列車のなかで言っただろう。お前さんにはがあると」


 ヴィクトルが、その言葉に身を固まらせる。彼は泣き叫ぶことをやめて、リントネンの顔に弱々しい視線を投げた。それを認めたリントネンが、淡々と語を継ぐ。


「残念ながら、俺たちはこの施設にお前たちが流す予定の毒ガスを止める有効なパス・ワードを知らない。だから、お前さんは、それを止めろ。それがお前さんに与えられた最後のチャンスだ」

「それは……カノン保護員だけが知っている案件だ。俺にはどうしようもない……」

「それを何とかするんだよ」


 リントネンが再びヴィクトルの顔面ににじり寄り、語気強く迫る。


「そしてそれを果たしたら、お前さんはセルジオ・タハに引導を渡すんだ。被験体のひとりとして」

「俺に閣下を殺せというのか」

「そうじゃない。俺たちは殺戮の連鎖は望んでいない。むしろ、お前さんの役目は、それを止めることだ。そうすることで、お前さんはようやく、あの爺さんから解き放たれるんだ。そして、お前さんの父の呪いからも」


 それを聞いたヴィクトルは、低く唸った。


「……父の、呪い?」

「そうだ。それを自分の手で断ち切れ。それがお前さんが、自分の生を取り戻すに何より、必要なことだろう? 違うか? そして、そうすることで救われるのはお前さんだけじゃない。お前の父もだ。お前さんが父の過ちを繰り返すことなく、人生を手にすることで、お前の父の生もはじめて意味を持つんだよ」


 そうして、リントネンはコートの懐から鍵を取り出し、ヴィクトルの手錠を静かに解いた。

 驚きを隠せぬヴィクトルの表情を、今までにない真剣さを込めた緑の瞳で眺めながら、リントネンはただ一言、彼にこう告げる。


「生き抜くんだ」


 そして、一連のやりとりを黙って見守っていたアイリーンも、泣き濡れたヴィクトルの頬に、そっ、と指先を添えて、こう呟いた。


「そうよ、生きて、ヴィクトル」

「アイリーン……、君は、こんな俺を許せるのか……?」

「……分からない。あなたが、私に酷いことをしようとしたことは、よく、分かったわ。それを許せるかどうかは、正直いって、いまは、分からないの。でも……同時に、こう思うのよ」


 そう言葉を紡ぐ自分の唇が、なぜか、優しく歪んだのをアイリーンは、一瞬、不思議に感じた。

 しかし、次の瞬間には、それでいいのだ、と思った。

 大切な人に、大切なことを告げるときは、こういう顔をしていいんだわ、と。


 ――そうだ、亡き父も、こんな顔をして、何度も私を抱きしめてくれていたわね。


 そんな思い出を噛みしめながら、アイリーンは言った。

 その顔に満面の微笑みを湛えて。


「ヴィクトル、私は、あなたに生きていて欲しい。ほかでもない、あなたに」

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