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第65話 リントネンの激情

 ヴィクトルは、レベッカの手によって丁寧とは言い難いやり方で身体を起こされた。


 むろん、痛めつけたとはいえ、レベッカはまだヴィクトルに対して警戒を解くほど甘くはない。愛娘の縋るような目つきを無視して、彼の腕を後ろに回すと、懐から手錠を取り出し、呻く青年の両手に嵌める。そうしてからようやく、レベッカはヴィクトルから手を離した。

 彼は動く手段も見出せず、ただ青い瞳を床に投げ、俯く。


 彼には蘇生したアイリーンをまだ直視する勇気が出ない。確かに撃ち殺したはずの命だった。それが自分に弾を撃ち込まれたことさえ忘れたように、動き、傍に立っている。それが怖くてならない。

 そして、それ以上に、自分の犯してしまった罪をまざまざと見せつけられる気がして、誰よりも愛しいと認識した筈の菫色の瞳を見ることができないでいる。


 なので、床に座り込んだ己の傍に、他でもないアイリーンが近寄ってきて、心配そうに顔を寄せると、ヴィクトルは、びくり、と身を震わせた。視線を彼女の顔に動かすのは、まだ、どうしてもできそうにない。

 断続していた爆発音はいつの間にか止んでいた。


「大丈夫? ヴィクトル?」

「……君はどこまで人がいいんだ……」


 アイリーンの声にヴィクトルは下を向いたまま小声を漏らした。するとアイリーンは顔を曇らせたが、すぐに、ヴィクトルにこう言った。


「そりゃあ……びっくりしたけど、でも、なにかの間違いだったんでしょう? 私を撃ったのは。私と、誰かを間違えたとか……」

「違う!」


 突然の激しい大声に、今度、身を震わせたのはアイリーンの方だった。それに構わず、ヴィクトルは堰を切ったように己の企みを、栗色の髪を振り乱して絶叫した。


「俺はもともと、ここで君を殺す目的で、君の旅の警護に就いたんだ! タハ閣下からの命令で! 全ては計画通りだった! そうだ、ここまでは全て計画通りだったんだ! 被験体の蜂起、そしてアイリーン、君が生き返らなければ!」

「……嘘でしょ……、ヴィクトル」

「嘘じゃない! なのに、アイリーン、なぜ君は、生きているんだ……! 頼む、俺に近寄らないでくれ! 話しかけないでくれ、そんな優しい瞳で見つめないでくれ! 見せつけないでくれ、俺の罪を!」


 それから、ヴィクトルはまるで懇願するような声音で、弱々しく語を零した。


「……もう、こうとなったら、ひと思いに殺してくれ、頼む。アイリーン、君の手でなら俺は、構わない……」


 そう言ってから、ふるふると顔を振るわせながら、ヴィクトルははじめてアイリーンの顔をおずおずと見た。先ほどと同じ追い詰められた獣のような、しかし同時に悲哀と己への罪悪感に満ちたその表情を見て、アイリーンは息を飲む。飲みつつも、菫色の瞳を揺らし、こう答える。


「そんなこと……できるわけないじゃない……」

「どうしてだ!」


 アイリーンの答えにヴィクトルは思わず、自由の効く足で床を激しく蹴り上げた。今もなお、アイリーンの流した血で染まったままの床を。



「甘ったれたこと言うんじゃねぇよ。ヴィクトル・ボイツェフ少尉」


 突如、男の低い声がその場にいる全員の鼓膜を打った。レベッカとアイリーンがふたつの菫色の双眼を、開いたままだったドアに向けた。ただひとり、ヴィクトルは向けなかった。なぜなら、彼にはその声の正体を瞬時に察していたから。

 果たして、その後のレベッカの声はそれを裏付けるものであった。


「遅かったじゃないの。リントネン総司令官。どうせならアイリーンがこんな目に遭う前に来てほしかったわ」

「すまないな、レベッカ・カナハラ。地球の野暮用で、ちょっと手間がかかっちまったのと、見込みが外れてな」


 そう言いながら部屋に入ってきたのは、オムスク駅で別れたはずの赤い髪の中年男、そう、他でもない彼であった。

 その姿を見て、アイリーンが呆然としたように呟く。


「リントネンさん……」

「よぉ、また会えたなぁ。お嬢さん。だいぶん怖い目に遭わされちまったようだがなぁ」


 そう薄笑いを唇に浮かべるリントネンの格好は、列車で別れた時のままだ。ひとつに纏めたボサボサの赤い髪も。だが、ただひとつだけ、擦り切れた灰色のコートの胸元には、見慣れないものがある。

 鈍いひかりを反射して煌めくそれは、蒼い羽を模った金属製のバッヂだった。それは、そのものが語る通り、反政府組織「蒼い羽」の構成員であることを示すもの他ならない。

 彼はいまやその素性を隠すことなく、月の裏側に姿を現したのだった。


 部屋に入ってきたリントネンは、まず、その登場に目をぱちくりとさせたままのアイリーンに歩み寄り、その腕を掴むと、ぐっ、と彼女の身を自分に引き寄せた。そして声も出ないアイリーンの赤く汚れた胸部を覗き込み、そこからの出血が完全に止まっていることを確かめる。


 そして、彼はアイリーンの腕を離すと、ゆっくりと床に座して、なおも己の顔を見ようともしないヴィクトルに近づき、その顎を掴むと、思い切りよく拳で彼の頬を殴りつけた。

 その勢いで手錠をされたままのヴィクトルの身体は、いとも容易く吹っ飛び、背後の壁に叩きつけられる。


 ヴィクトルの唇が切れ、一筋の赤い血が彼の顎を伝う。しかし、それに構うことなく、リントネンは彼の顔をなおも掴むと、もう一発殴打を加えた。ヴィクトルが思わず漏らした呻き声が部屋に響く。

 そしてリントネンもようやく口を開く。栗色の髪を乱して転がるヴィクトルの胸元を掴んだまま。


「まさかなぁ、お前さんがこんな馬鹿だとは思ってなかったんだよなぁ、俺は! 見込みが甘かったよ。全くもって俺の目も曇ったもんだよなぁ!」

「……くっ……」

「馬鹿か! 貴様は! 俺の言ったことをよく考えろ、と言っただろうが! お前の人生を取り戻せと! この旅はそのためのまたとないチャンスだったんだぞ? それを頭を働かせることもなく、あの爺さんの言いなりになって、このお嬢さんを殺しにかかりやがって! 本当にお前は、唾棄すべき大馬鹿野郎だよ!」


 気がつけば、至近距離で自分を睨みつけるリントネンの緑色の目はらんらんと怒りに燃えていた。そしてヴィクトルは、リントネンの胸に輝く蒼い羽のバッヂに、ひとくくり赤いリボンが結びつけられていることにはじめて気づき、それが示す彼のさらなる素性を知る。


「……貴様、「蒼い羽」のリーダーなのか……。よくもまあ、月の裏側こんなところまで総大将自らお出ましになったもんだな……」

「その通りさ。だけど、お前さんがこんな大馬鹿野郎でなければ、俺が直々、こんなところまで乗り込む予定はなかったんだがな!」


 そこまで言ってリントネンはやっと掴み上げていたヴィクトルの襟首を手放した。どさり、とヴィクトルの身体が床に崩れ落ちる。だが、怒りに燃える瞳はヴィクトルになおも向けたままだ。


 それから、リントネンはヴィクトル、そしてアイリーンに語り始めた。

 全てのを。

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