――さすがの動きだな。十数年が経過しても、リ・ターンの薬の威力は相当なものなんだな。
室内で銃声が木霊する。一度ではなく、戦いが始まってからの僅か数分間に、すでに何回も。
その全てはヴィクトルがレベッカを狙って撃ったものだ。しかし、彼の銃弾はいまだ彼女の身体を捉えられずにいる。レベッカの動きは迅速で、素早く身を捩ってはヴィクトルの銃口からいとも容易くすり抜けていく。
もちろん、すり抜けるだけではない。身体をしなやかに曲げながら高く跳躍し、壁を蹴り、その反動を利用してヴィクトルの胸元に鋭くナイフを突き出してくる。すんでのところでヴィクトルも身を捩り、レベッカの攻撃を躱す。しかし、胸元を見れば、身に纏ったセーターはナイフの刃により大きく裂けていて、レベッカの戦闘能力がいかに油断できないものであるかを示している。
ヴィクトルは舌打ちしつつ、己もまた天井近くまで跳躍する。空中に舞いつつ、彼はまたもや至近距離で刃を突き出してきたレベッカを銃撃すべく銃を構え、彼女を十分に引きつけてから引金に手をかける。レベッカの菫色の瞳とヴィクトルの青い瞳が間近で交差した。
――ああ、アイリーンと同じ色の瞳だ。俺がさっき殺した、アイリーンと。
ヴィクトルはどこか遠くの出来事のように、その一瞬、ぼんやりとしながら、いまは床に横たわって身動きひとつしない彼女のことを考えた。だが、考えつつも引金から指を離すことはない。そして目前に迫ったレベッカの胸を目がけて、銃を撃った。
しかし、引金は、かちり、と乾いた音を立てただけで、銃口は火を噴かない。一瞬ヴィクトルは虚を突かれたようになった。その隙を逃さず、レベッカが足を振り上げる。次の瞬間、彼女の膝はヴィクトルの顎に激突した。
「うぐっ!」
「弾の残数くらい数えながら、撃ちなさいよ!」
ヴィクトルの身体は勢いよく弾き飛ばされ、部屋の壁に激突した。息が詰る。しかし、彼はなんとか後ろ足で壁を蹴り、身体を回転させ、床に着地する。そして役に立たなくなった銃を投げ捨て、体勢を立て直すと、今度はレベッカの背後を狙って素早く跳んだ。後ろを取られたレベッカが慌てて肩越しに振り向く。
だが、すでにそのとき、ヴィクトルの両腕は前に差し出され、両手はレベッカの首を掴んでいた。
「あ、っ……!」
「銃がなければ、素手で制圧するまでだ!」
ヴィクトルはそう叫びながらレベッカの首を絞めつける。
勝てる、と彼は思った。お互い被験体としての能力に遜色がないならば、あとは、それぞれが元々持つ力で勝負するのみだ。だとしたら、男性である自分が優位に違いない。そう思えばこそだった。ヴィクトルは呻くレベッカに構わず、掌に力を込める。彼女の首の骨を砕くべく。
ところが、思いもしないことが起こった。レベッカは易々と首を絞めるヴィクトルの両手を振りほどいて見せたのだ。
「なにっ……?」
「甘く見ないでほしいわね。偽薬で命を繋いでいたあなたに、負ける私じゃないわ」
「偽薬?」
ヴィクトルがレベッカの思わぬ言葉に、青い瞳を見開く。その瞬間、緩んだヴィクトルの身体を、身を反転させたレベッカの腕が掴んだ。そして容赦なく、彼を頭から床に叩きつけた。こう叫びながら。
「残念だったわね。あなたが列車内で
そのレベッカの言葉に、激しい痛みに脳を軋ませながらもヴィクトルは全てを悟った。そしてそのとき、瞬時に脳裏に浮かんだのは、薄笑いに唇を歪める赤い髪の男だったのは、言うまでもない。
そう、その男の名は「蒼い羽」のメンバーこと、アッツオ・リントネン。
「あんの、野郎……! 被験体と通じてやがったのか!」
「そういうことよ」
熱を感じさせぬ温度で言葉を放ちながら、床に転がったヴィクトルのもとにレベッカが歩み寄る。
そして彼女は、ゆっくりと、動けぬ彼の喉元にナイフを突きつけた。
「勝負あったわね、ヴィクトル・ボイツェフ少尉」
菫色にらんらんと燃える瞳が、自分を憎々しげに睨んでいる。その様子を、仰向けになったヴィクトルは、頭部に響く痛みに呻きながらも、どこか冷静に見つめていた。
そしてそのとき思ったのも、やはり、彼女のことだった。
レベッカが、ナイフの刃を己の喉に振りかざす気配を感じ取りながら、ヴィクトルは思う。
――ああ、やっぱりアイリーンと同じ瞳だ。だったら俺は、彼女に殺されるようなものだな。ならば仕方ない。自業自得としかいいようがない。これが俺の生の終わりならば、なかなか上出来じゃないか。
彼は人知れず唇を笑いに歪ませる。そして、覚悟を決め、目を瞑った。
だから、次の瞬間、彼の鼓膜を打ったのものが、他ならぬ彼女の叫び声だったことに、彼は驚愕したのだ。
「お母さん! やめて!」
ヴィクトルは目を見開いた。そして床に伏せたままの身体を横に捩る。その声が聞こえてきた方向に。
すると、そこに立っていたのは、他でもない、自分が先ほど撃ち殺したはずのアイリーンであった。唖然としながらヴィクトルは呻く。
「なぜ、アイリーン? 俺は確かに、さっき、君を……」
そう呟いたヴィクトルの傍にアイリーンが駆け寄ってくる。
その身体は先ほどと同じく血に汚れているものの、胸の銃創からは、もはや血は流れていない。そして青ざめていた彼女の顔色もいまはまったく元に戻っていて、健康な人間のそれ、そのものだ。その足取りもしっかりしており、血で汚れてなければ、彼女を撃ったという事実さえも幻覚として捉えてしまいそうだ。
しかし、呆然とするヴィクトルの喉には、なおも、レベッカのナイフは突きつけられたままである。アイリーンが再び叫んだ。
「お母さん! やめて! ヴィクトルを殺さないで!」
「アイリーン……」
レベッカが蘇生した愛娘に視線を投げる。そして、多少呆れたような声音で、アイリーンを質す。もちろん、ナイフは一ミリも動かさないままだ。
「アイリーン。分かっているの? この男はあなたをこの月の裏側まで騙して連れてきて、殺そうとしたのよ? そんな男を生かしておける? 生かしておいたら、またあなたを殺そうとしかねないわよ?」
「でも、でも、それはきっと、何かの間違いだったのよ! 彼、そんな悪人じゃないわ!」
「だけどね、アイリーン、私にとってはね、この男は、唾棄すべき男の息子でもあるのよ」
レベッカは忌々しげにヴィクトルの顔を睨み付ける。しかし、アイリーンは必死だ。茶色のくせ毛を振り乱し、菫色の瞳を激しく光らせて、彼女は懸命に母に訴える。
「……そうかもしれないけど! なら、なおさら、ヴィクトルに罪はないわ! 彼の父の罪をヴィクトルに償わそうとするのは、お門違いよ!」
「アイリーン」
「お母さん、お願い! 殺さないで! 彼はとても優しい人よ! 私、そういう大切な人が目の前で殺されるの、もう見たくないわ、お願い!」
懇願するアイリーンの瞳は、今や、濡れんばかりだ。レベッカは、自分と同じ色の瞳が涙で滲みかけているのを見て、軽く溜息をつく。そして、いまだ厳しい視線を倒れたヴィクトルの顔に、また移す。
それからたっぷり数十秒の間を持って、レベッカがちいさく囁いた。
「分かったわ……アイリーン」
レベッカはナイフをゆっくりと、ヴィクトルの喉から離しながら、語を零す。
どこか、苦笑気味に。
「ほんとうに、あなたはジーンの子なのよね。どこまでも」