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第63話 すべては遅すぎた

 どのくらい、アイリーンの血潮がじわじわと広がる床を凝視しながら、自分は佇んでいたのだろうか。


 とてつもなく長い間だったようにも思うし、数瞬のことのような気もする。それすら分からないほどに、倒れたアイリーンの傍らへと棒立ちになっていたヴィクトルは、この期に及んでもまだ、己が冷静でないことを知る。先ほどカノンの言葉に腹を括り、心を凍らせたはずなのに。

 それなのに、またも銃を握りしめたままの手は震えだしているし、激しく軋む心臓の動悸で息が苦しい。


 そして、またも脳裏にくっきりと浮かび上がるのは、先日の列車内で、リントネンに放たれた言葉だ。


 ――それをしちまったら、お前さんは、お前さんの父とまったく同じ人間に、成り下がるからだよ――。


「成り下がっちまったな、結局……。俺も父と変わらない、ろくでもない人間だった」


 ヴィクトルはそう呟く。自嘲を込めた、どこまでも沈んだ口調で。そして、彼女の血がジーンズを浸すのも構わず、横たわるアイリーンの横に蹲り、その身体におずおずと腕を回す。


 まだ、アイリーンの肢体には、ぬくもりがあった。それだけでなく、彼女を抱き留めた掌には、胸からの弱々しい鼓動が伝わってきて、その息は完全に絶えてはいないことにヴィクトルは気が付く。だからといって気持ちが明るくなるわけもない。寧ろ、その心臓が完全に動きを止める瞬間を確かめねばならないという現実、それが彼の心に重くのし掛かる。


「アイリーン、俺も、君と、互いの父の話をまた、したかった」


 彼女の血に汚れた茶色のくせ毛を撫でながら、ヴィクトルはなおも呟く。そう口から本音を零した途端、得も知れぬ数多の感情が彼の胸に渦巻く。捨てることのできなかった任務、それでも抑えきれぬ贖罪の感情、弱い己への情けなさ、それから、それから――。

 同じ痛みを語らううちに、いつの間にか、同情や憐憫から姿を変えていた、アイリーンへの慕情。


 それに気付いたとき、ヴィクトルは、衝動的にアイリーンの身体を抱き起こし、青ざめた唇を自分のそれで覆っていた。


 ――誰かに、愛されたかった。誰かを、愛したかった。いや、「誰か」じゃない、出来ることなら、アイリーン、君を、君を。


 アイリーンの唇に口づけながら、いつしかヴィクトルは心のなかで激しく絶叫していた。だが、そうしつつも、もう全てが手遅れであることも彼にはよく分かっている。分かり過ぎるほどに、分かっている。

 いくら激しく貪ってみても、吐息ひとつ漏らさぬ柔らかな唇が、なにより確かに、そのことを告げている。



「そんなことでアイリーンが生き返るとでも? 童話の王子様気取り?」


 唐突に背後から声がして、ヴィクトルは我に返った。慌ててアイリーンから顔を離し、彼女を抱きかかえたまま振り返る。

 すると、茶色い髪を束ねた菫色の瞳の女性が、息を切らしながら、自分にナイフを向けて立っているのが目に入る。胸に付けられたナンバーと服装から、施設に入所している被験体と分かる。頬や服は煤に汚れ、ナイフの刃はすでに赤く、その顔は険しかったが、ヴィクトルには既視感があった。彼は思わず、胸に抱いたままのアイリーンとその女性を見比べ、そして彼女の正体を悟る。


「……あなたは、レベッカ・カナハラか」

「そうよ、あなたの父にさんざになった、女よ」


 レベッカは菫色の瞳を苛烈な色に燃やしながら、じりじりとヴィクトルとの距離を縮めていく。そしてヴィクトルがなおも腕に抱えたままのアイリーンを一瞥して、憎々しげに語を放った。


「やってくれたわね、クオの忘れ形見。よくも私の娘をこんな目に」


 そしてレベッカは勢いよく身を躍らせて、ヴィクトルにナイフを振りかざす。その動きは、ターンであるヴィクトルでさえも見切れないほどの素早いものだった。ヴィクトルはレベッカの身体を間一髪で躱す。その勢いで、彼の腕から離れたアイリーンの身体が、どさり、と再び力なく床に転がる。


 するとレベッカはヴィクトルには目もやらず、床に崩れた愛娘に素早く近づくと、アイリーンの血に濡れた右腕を手にし、そこに勢いよく胸元から差し出した注射針を突き刺した。

 それを見てヴィクトルが鋭く叫んだ。


「やめておけ! なんの薬か知らないが、今さらどう手当てしても無駄だ! 俺の銃の腕を舐めるな。アイリーンの胸を俺は間違いなく撃ち抜いたんだ、彼女が蘇生することはない!」

「さあ、どうかしらね。やってみないと分からないことだって、この世にはまだ、たくさんあるのよ」


 ヴィクトルの言葉に耳を傾けず、レベッカはアイリーンに注射を続ける。やがて何とも知れぬ液体がすべてアイリーンの腕に吸い込まれたのを確かめると、レベッカは彼女の身体を、そっ、と丁重に床に横たわらせる。ヴィクトルは、その一連の動作を声もなく見守っていたが、娘を床に下ろしたレベッカが、再び自分にナイフの刃を向けたのを目にして、彼もまた、銃を構え直した。


「諦めろ。もう被験体を抹殺する計画は止められない。どう足掻いたって、被験体俺たちに未来はないんだ」

「諦めるなら、あなたは勝手にどうぞ。私は諦めないわよ」

「引かないなら、あなたがアイリーンの母といえども、俺は容赦しないぞ」

「ならば、お手合わせ願いましょうか、ヴィクトル・ボイツェフ少尉」

「……よかろう。たとえあなたもリ・ターンの被験体とはいえ、負ける俺じゃない」


 保護棟の狭い室内でレベッカとヴィクトルは睨み合う。


 そして、音もなく対決の火蓋は切って落され、ふたりはそれぞれナイフと銃を宙に繰り出した。

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