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第54話 車中のふたり

 列車は定刻より二十五分ほど遅れて、ウラジオストク中央駅を発車した。


 車中に入ってみれば、アイリーンとヴィクトルがあてがわれた客室は、大きな車窓を挟んでふたつの椅子とサイドテーブルが並んだまずまずの広さのコンパートメントだった。もちろんその脇には簡易寝台をもふたつ配置されている。予想していたことではあったが、アイリーンはそれをみてまた顔を赤らめた。その様子を見てヴィクトルが仕方ないだろう、といった表情で彼女に話しかける。


「カップルを装って移動するんだから、別室というわけにはいかないのは、分かっていただろう?」

「それはそうだけど」

「安心しろ。俺は君に手を出すほど、飢えちゃいない」


 そう語るヴィクトルの青い瞳からは、あいかわらず心情を窺うことは出来ない。彼はまず自分のトランクを頭上の棚に置き、それからアイリーンの手から彼女の荷物を何も言わぬまま、さりげなく取り上げると、それをも棚にしまう。そのあと、ふたりは、それぞれダウンとコートを脱ぎ、それを壁に掛けると、とりあえず椅子に向かい合って腰掛けた。


 列車はどんどん速度を上げてシベリアの大地を疾走しはじめており、ウラジオストク近郊の駅をまたたく間に通過していく。


 アイリーンは改めて、目の前に座るヴィクトルをまじまじと見る。緑色のタートルネックセーターとジーンズというラフないでたちは、彼の白い肌と端整な顔立ち、それに透き通る青い瞳と短い栗色の髪を引き立てるもので、高等学校時代、一時期憧れたクラスメイトの男子生徒を思いださせる。もっとも、アイリーンは友人も作ることも叶わないその「出自」と、内向的な性格から、そんな思慕を相手に告げることはなかったし、ましてや、男性と付き合ったことも今もってなかった。


 ――それが、いきなり歳も違わぬ男性と、ふたり旅だなんて。そりゃ、閣下の命令に逆らえるわけ、ないんだけど。


 アイリーンはそう心中で独り言つ。すると、唐突にヴィクトルが口を開いた。


「何から知りたい」

「え?」

「俺のことについて、何から知りたいか、と聞いているんだ」


 アイリーンは瞳を瞬かせた。そして慌てて、ヴィクトルの素性について頭を巡らせる。聞きたいことはたくさんあったが、こう唐突に尋ねられると、何から聞いていいものか迷うばかりだ。

 やがて、アイリーンはおずおずと、ヴィクトルの青い瞳を見つめながら言った。


「あなたの、親のこと」


 ヴィクトルの顔が僅かに歪んだ。


「……いきなり、核心を突いてくるんだな」

「だって、海岸で話したとき、言っていたから。私は命を守ってもらっただけでも父に感謝するべきだ、って。そして自分の親はそうではなかった、と。そのことが、すごく、気になっていたの」

「そうか」


 そう零すと、ヴィクトルは車窓に視線を投げて、暫しの間、何かを考えるような顔つきをしていた。同時に、その瞳の色は深い憂いに沈んでいる。それに気付き、アイリーンは慌てて語を継いだ。


「あ、もちろん、嫌ならいいのよ!」

「いいや、別に構わんよ。俺だけ君の父について詳しいのは、何かと不公平だしな。それに、どうせ月に行けば分かってしまうことだし」


 ヴィクトルは一気にそう言葉を吐き出すと、再び顔をアイリーンに向ける。列車が速度を増してゆく。それに伴い、がたん、がたん、と車両が揺れる音も大きくなってきた。そのなかで、ヴィクトルがゆっくりと再度、口を開く。

 それから彼は、やや早口で己の親について語り出した。どこか自嘲に満ちた、忌々しい、早く話してしまおう、とばかりの口ぶりで。


「俺の父の名前は、クオ・ケセネス。この名は君も聞いたことがあるだろう」

「えっと……。どこかで聞いたことがあるような気もするけど、はっきりとは分からないわ」

「なら、教えてやる。月の裏側で、君の父の同僚として働いていた研究者だ。もっとも、それは仮の姿に過ぎず、その正体は閣下の命で月に潜伏していた諜報員だったわけだが。そして、月の研究所を殲滅した張本人でもある。それも己の私利私欲から、ね。その後は君の父、ジーン・カナハラとカナデ・ハーンを追い、ふたりをサハリンで迎え撃った。君の母、レベッカ・カナハラを使うという非情極まりないやり方でな」


 アイリーンは、自分の父のみならず、母の名前までがヴィクトルの口から漏れ出たの耳にして、思わず身体を強張らせた。しかし、ヴィクトルはそれを目に留めつつも語り続ける。一旦口からあふれ出してしまった父への憎悪を、彼は、止めることが出来なかったのだ。


「結局は、タハ閣下の制裁を受けて、みじめな最期を晒したんだけどな。まあ、似合いの最期だったと俺は思うよ。何しろ業の深い男だったから。出自は戦争難民ながら、才能を見い出されて閣下に拾われたわけだが、それに奢って、同じ難民だった俺の母を乱暴しやがった。そして、母を妊娠させた責任を問われて、月に厄介払いされたわけだが、そのことで父は俺を逆恨みしてな。サハリンに残された俺を、ターンの被験体として使いたいとの打診が来たときは、喜んで応じたと聞いているよ」

「そんな、ことって……」

「そういうわけで、俺は八歳にして、ターンの被験体になった。ターンはあまり若い被験体に打っても、即効性はないものだが、その代わり長い時間を掛けて効能を発揮するものらしい。おかげで、今もなお俺の身体はターンの影響下にある」


 そこまで話して、ようやくヴィクトルは己の素性についての話を打ち切った。アイリーンは、あまりにも陰惨極まる彼の過去に、なんと応じていいやら分からず、視線を自らの膝に落した。そこに置いた自分の白いセータに包まれた腕が、微かに震えているのを、ぼんやり見つめながら。


 客室に沈黙の帳が落ちる。時刻は夕暮れを遥かに超え、車窓はすでに漆黒に塗りつぶされている。いつの間にか自動点灯していた照明が、列車の揺れに合せて仄かな影をふたりの顔に落す。


 十数分の沈黙の後、再び口を開いたのはヴィクトルだった。


「まあ、そんなところだ。だいたい、君の知りたいことはこれで喋っちまっただろう。他に、なにか聞きたいことはあるか?」

「……じゃあ、ヴィクトル。あなたは今、本当はいくつなの?」

「二十七歳だ」


 栗色の髪の青年が、皮肉に口を歪めたまま語を放る。アイリーンは、外見は自分とそう変わらぬ歳に見えるヴィクトルが、時にその見かけに反する大人びた印象を醸し出していた理由に納得し、ひとり心のなかで頷いた。

 それから、彼女はゆっくりと椅子を立つと、客車の扉に手を掛ける。


「アイリーン、どこへ行く」

「そろそろ夕食の時間でしょ。食堂車に行って、食事、もらってくる」


 アイリーンはそう虚ろな顔で答えると、静かに身体を廊下に滑り出した。そして、大きく息を吐く。


 訳も分からず、胸がずきずきと痛む。

 気を少しでも緩めれば、涙が零れ落ちそうだ。


 ヴィクトルの言葉から垣間見えた深い闇に、アイリーンは息が詰りそうだった。とてもいま、これ以上、平常心を保って彼の顔を直視することはできそうになかった。


 彼女は、彼の前から座を外す口実があったことを幸いに思いながら、のろのろと食堂車に向けて歩き出した。

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