目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第53話 ウラジオストク中央駅

 ちいさなトランクひとつに纏められた荷物を手に、アイリーンは駅の広い待合室のなかに佇んでいた。

 駅の雑踏に視線を投げれば、やはり目立つのは南部戦線に派兵される兵士の一群や補給部隊の姿であり、現在の緊張した戦線を窺わせるものであったが、だからといって一般客の姿が見受けられぬわけではない。アイリーンもそのなかのひとりだ。そして、隣に立つヴィクトルも。


 今日の彼は、それまでの見慣れた軍服姿でなく、緑のタートルネックのセーターにジーンズ、その上に茶色いスウェードのコートを羽織ったカジュアルな格好だ。むろん、コートの懐の奥には、愛用の銃が潜ませてあって、アイリーンの案内役兼警護としての備えは解いていなかったが、それを知らなければ、彼はどこにでもいる旅装の青年である。



 短い時間、自宅に戻ることを許されて旅の支度をしていたアイリーンの前に、彼がその姿で迎えにきたとき、リビングにいた彼女は面食らって菫色の瞳を丸くしたが、それを見たヴィクトルはさも当然だとばかりに、淡々とこう語を放った。


「当然だろう。今回の君と俺の月までの旅程は、極秘行動なんだ。軍服を着ていていくわけにはいかん。君もなるべく目立たない、普通の格好でいてくれ」

「……はい、ボイツェフ少尉」

「その呼び方もやめてもらおうか、アイリーン」

「え、ええっ?」


 唐突に自分の名を呼び捨てされ、アイリーンはさらに目を丸くした。だが当のヴィクトルは、眉ひとつ動かさない。


「階級で呼ばれるのも困るんだ。我々はただの旅行者を装うわけだから。だから、俺は君を名前で呼ぶ。君も俺をヴィクトル、と呼べ。俺たちは旅のカップルを演じるんだから、そうでなくてはおかしいだろう」

「かっ、カップル、ですか!?」


 アイリーンは纏めていた荷物を手から取り落としそうになった。それを見たヴィクトルが呆れたように言う。


「何をそんなに赤くなってるんだ。演じるだけと言っているだろうが、アイリーン」

「……は、はい、少尉」

「だから、ヴィクトル、と」

「は、は、はい……えっと、ヴィ、ク、トル……」


 アイリーンはなおも顔を赤くしながら、彼の名を呟いた。その声は気恥ずかしさで消え入らんばかりである。しかしヴィクトルはそんなアイリーンの様子をさして興味もなさそうに見やると、彼女にこう告げて外に出ていった。


「それでは旅の支度を急いでくれ。俺は車のなかで待っているから」


 バタリ、と音を立てて扉が閉まり、栗色の短髪の青年が玄関の外に消える。アイリーンは肩までの茶色のくせ毛ごと頭を振り、赤面していた顔を慌てて引き締めると、再びトランクに荷物を詰め始めた。やがて、それが一段落すると、ほぅ、と大きく息を漏らし、ゆっくりと、家の中を見回す。


 カナデの手できちんと整えられた部屋。床に落ちているものといえば、彼女が倒れてる寸前まで編んでいたらしい編みかけの毛糸くらいだ。アイリーンは思わずその薄ピンク色の毛糸玉を手に取る。そして、ゆっくりとそれを手で撫でた。

 そこには、今はもう亡きカナデの、ぬくもりがあった。確かに数日前まで、ここで、彼女が生きていた証があった。そう、ほかでもない自分と共に暮らしていた日常の痕跡が。


 アイリーンの瞳がじわっ、と熱く滲む。

 しかし彼女は、ともすればあふれ出しそうになる涙をぐっ、と堪えて毛糸をテーブルの上に置くと、トランクの柄を強く握りしめて、思い出深い我が家を後にした。



 それが数時間前のことである。

 ヴィクトルが車でアイリーンを連れてきた先は、ここ、ウラジオストク中央駅だった。ヴィクトルは乗ってきた車を軍の関係者らしき人物に託すと、アイリーンにこれからの旅程を説明しながら駅に入った。


ウラジオストク中央駅ここは、環ヨーロッパ=シベリア高速鉄道の始発駅だ。我々はこれから、それに乗る。列車はワルシャワ行きだが、我々が目指すのは宇宙港のある途中駅のオムスク。ウラジオストクからは二泊三日だ」


 いつもの白いダウン姿のアイリーンは茶色のくせ毛を揺らして、ただヴィクトルの横で、その言葉に頷くのみだ。


「そこで途中下車したら、オムスク宇宙港から月への旅客便に搭乗する。月まで行けば、あとは保護施設の職員が迎えに来ているはずだ。何か質問は?」

「……ありません」

「それも直せ。俺に敬語は使わなくていい。なるべく砕けた口調で話してくれ」


 アイリーンは肩をすくめた。彼女はひたすらに気が重かった。月へ母に会いに行く、というだけでも、あまりにも意外すぎる展開の極みなのに、よりによってその同行者は、タハの親衛隊員の将校。自分の素性をすべて知っている様子の彼に、これからの一挙一動も余すことなく見られる、と思うと気分は滅入るばかりだ。アイリーンはヴィクトルのことを何も知らないというのに。

 そこまで考えて、ふとアイリーンはルースキー島の海辺での彼の行動を思いだし、微かな声で問うた。


「ヴィ……ク、トル、あなたは、カナデおばさんと同じ、被験体なんですか?」

「敬語は使うなと言ったばかりだろう」


 途端にヴィクトルの端整な顔立ちが険しくなる。そして彼は声を潜めて、アイリーンの耳もとで囁いた。


「そういう話は人前では禁忌だ。時間はいくらでもあるんだ、俺についてのことは、列車のなかでふたりきりになったらいくらでも話してやる」

「はい……いえ、えっと、ええ……」


 アイリーンはヴィクトルの厳しい声に縮こまらんばかりである。列車の発車時刻は十七時。ふたりが駅の待合室に入ってからなお、まだ一時間半ほどの間があった。ふたりは待合室のベンチに座って列車の入線を待つことにしたが、その間に会話らしい会話は生まれない。アイリーンは高まる緊張に押しつぶされんばかりだった。


 しばらくして、そんなアイリーンの様子を見て、ヴィクトルがぽつり、と言った。


「アイスクリームは何が好きだ」

「え?」

「その調子じゃ、月までとても神経が保たないだろう。アイスクリームでも買ってくる。何が好きだ」


 その声にヴィクトルの顔を見上げると、彼もまた困ったような顔をしている。アイリーンはちいさな声で返答した。


「ブルーベリー」

「分かった。じゃあ、買ってくる。荷物をちゃんと見ていてくれよ」

「……ありがとう」

「俺も食べたいだけだ。礼を言われるようなことじゃない」


 栗色の短髪をかき上げながらヴィクトルはそう言うと、勢いよくベンチから立ち上がり、待合室の外に出ていく。


 ――私に気を遣ってくれたんだ。彼も彼で、この旅に戸惑ってはいるんだわ。


 アイリーンはそう思ったものの、だからといっても気の効いた言葉を投げかけられるわけもない。彼女は、ただその後ろ姿を見送るのみだ。

 すると、そんなアイリーンに声をかけてきた者がいる。


「よお、お嬢さん。ひとりかい?」

「えっ?」


 突然のことに驚いて、声の方向を見上げると、そこには赤く長い髪をひとつに結び、すり切れたグレーのコートを着た男が立っていた。年頃は三十代後半といったところだろうが、口元の無精髭が年齢不詳さを醸し出している。すると、アイリーンがなんと答えればいいか慌てているうちに、赤い髪の男は緑色の目をいかにも面白げに歪めながら、いきなり彼女の隣に腰を下ろした。

 さっきまでヴィクトルが座っていたベンチにだった。


「おひとりさんのようなら、ここに座らせて貰うぜ。いやあ、荷物が重くって」


 男はそう笑いながら、背負っていた大きなナップザックを床に降ろした。そして、アイリーンを見て何やら楽しそうに声を投げてくる。


「こんなにかわいいお嬢さんが、ひとり旅とは、このご時世にしちゃあ、寂しいことだなあ」

「いえ、いえっ、そういうわけじゃなくて……!」

「へぇ、そういうわけじゃないっていうなら、どういうわけなんだい? なあ、お嬢さんはどこへ行くんだ?」


 言いよどむアイリーンに構わず、男はぐっ、無精髭の目立つ顔を近づけてきた。男の赤い髪と緑色の瞳が、至近距離に近づく。


「もし同じ列車だったら、ぜひ、ご一緒したいところだね。旅にゃ、色気があったほうが何かと面白いからさ。なぁ? 俺が乗る列車は……」

「彼女から離れろ!」


 そこまで男が言いかけたとき、鋭い声が飛んできた。視線を放れば、アイスクリームのカップを片手に持ったヴィクトルが厳しい顔で立っている。それを一瞥すると、赤い髪の男は笑いながら肩をすくめた。


「おおっと、こりゃまた、ご立派な彼氏どのがいたもんだ。これは失敬、失敬」


 そう嘯くと、男はナップザックを背負うとグレーのコートを揺らして、待合室の外ヘ去って行った。

 アイリーンは動悸のする心臓を押さえながら、その背を安堵を持って見つめる。するとその頭上から、ヴィクトルの声が降ってきた。彼女を咎めると言うより、呆れの色が濃い声音だった。


「あのくらいの誘いを断れないで、どうするんだ」

「え、誘い?」

「そうだよ。ありゃ、アイリーン、君を誘ってたんだろ。しっかりしてくれ。先が思いやられる」


 ヴィクトルは顔を顰めながらそう言うと、アイリーンにブルーベリーのアイスクリームが入ったカップを手渡した。


「ありがとうございます」

「ほら、また、敬語」

「あ、どうにも、まだ、慣れなくて。……ヴィクトル、あなたのアイスクリームは?」

「ストロベリーは売り切れだった。早く食べろ。溶けちまう」


 彼はそう言いながらアイリーンの隣に再び腰を下ろした。アイリーンはカップに差し込まれたスプーンを手に取り、促されるままにアイスクリームを頬張る。

 酸っぱくも甘い、冷たい味覚が口いっぱいに広がった。


「美味しい」

「それは何よりだ」


 それからアイリーンは、黙々とアイスクリームを口に運び続けた。

 ふたりの乗る列車の入線時間までには、まだ間があった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?