目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第52話 急転する運命

 容赦ないタハの平手打ちに、ヴィクトルの身体は後方に吹き飛ばされた。


 途端にヴィクトルは書斎の床に強く叩きつけられたが、その身体をさらにタハの軍靴が襲う。一発、二発とその背は蹴られ、彼はたまらず呻き声を漏らした。ターンを打たれた強靱な身体とはいえ、痛覚は通常の人間と同じだ。猛烈な痛みを感じないわけがない。それでもヴィクトルはタハがその激情の赴くままに振り上げる足の下で、無言で耐え続けた。抵抗もしなかった。その気になれば自分の力はタハを軽く凌駕することは自覚していても、彼は足蹴にされるままでいた。


 タハの靴がみぞおちに食い込み、ヴィクトルが吐いた血が書斎の絨毯を赤く汚す。それを見て、タハはようやくヴィクトルの胴から足を放した。だが、その目に宿る憤怒の炎は変わることなく燃え続けている。いや、荒れ狂う感情のままに暴力を振るったことで、彼のやり場のない怒りはさらに高まっていく。タハにはもう、己を制御することができなかった。


「なぜ、カナデをむざむざ死なせた!?」


 何も言わず、床に伏せているヴィクトルの襟首を掴んで、彼を無理矢理立ち上がらせながら、タハはそう怒鳴った。胸に付けた、サリの顔が刻まれているユーラシア革命軍政府の国章がしゃらしゃら、と音を立てて揺れる。

 ヴィクトルが己の血に汚れた顔を、床に背けたまま、微かな声で囁く。


「……閣下、申し訳ありません。すべては私の不手際です。いかようにも処分して下さい」


 しかし、その言葉もまた、タハを逆上させるものでしかなかった。ヴィクトルの頬に平手打ちが再び炸裂する。愛する女を守れなかった栗色の髪の青年を前に、タハは一国の最高指導者としての矜持も何もかもかなぐり捨てて、白髪を振り乱しながら、こう絶叫することを止められなかった。


「戯れ言を言うな! お前をどう処分したところで、もう、カナデは還ってこない!」


 それから、タハはヴィクトルの軍服の襟から手を荒々しく振りほどくと、彼の青い目を睨み付けてこう言い放った。


「そうだ、たとえ、お前を殺しても、だ!」


 その言葉を吐き捨てると、タハはヴィクトルから身を離し、書斎の椅子に腰を下ろした。そして、そのまま肩を大きく揺らしながら、荒い息を吐く。唐突に、別荘の書斎に沈黙の帳が降りた。その只中、ヴィクトルは乱れた髪と軍服を直しながら、姿勢を正す。タハに蹂躙された身体にはずきずきと耐えがたい痛みが走ったが、ヴィクトルは表情を動かすことなくその一連の動作を終える。

 しかし、次のタハの暗く沈んだ声を聞いて、彼の眉がぴくり、と動いた。


「結局、お前も俺の期待を裏切るのだな。今度こそ実の息子のように育てたいと思っていたのだが、所詮はお前も、お前の父と一緒だった」

「……閣下、罰はいかようにも甘んじて受けます。ですが、私を父と一緒にしないで下さい。私はあんな卑怯な男ではありません。ましてや、私利私欲に走るような真似は、私は致しません」

「口答えをするな! 命が惜しくないのか!」


 ヴィクトルの反論に逆上したかのように、タハの口からは再び怒声が迸った。その瞳は苛烈な怒りで暗く濁っている。否、そこに宿っていたのは、底知れぬ憎悪の色だったというべきか。それを目の当たりにして、ヴィクトルは自分の運命が閉ざされたことを知る。いや、どちらにしろ、目の前の男の気まぐれひとつで消えてなくなるような命であるとは、自覚していたが。

 そしてほどなく、その予感を裏付けるようにタハがこう宣告するのを、彼は耳にする。


「ヴィクトル、お前だけは生かしておくつもりだったが、気が変わった」


 タハの嗄れた声が、書斎に静かに木霊する。その響きは絶対零度の冷たさを保っていた。


「お前は月に行け。月の裏側にだ、あの娘と一緒に」


 しばらくの後、ヴィクトルは呻くように、ちいさく呟いた。


「……私に月で死んでこい、ということですか……」

「そのとおりだ。それが、お前が今回の件について、私に罪を購える唯一の方法だろう。違うか?」


 タハの澱んだ目が、ヴィクトルをぎらり、と睨み付ける。覚悟を促すかのように。

 数十秒の間を持って、栗色の短髪の青年将校は、ゆっくりと片手を持ち上げ、目前の最高指導者に敬礼する。そして、僅かに震える声で、受託の意を述べた。


「……命令、拝受致しました」


 それで良い、とばかりにタハが頷く。そして、彼は次に、ヴィクトルにこう命じた。


「ここにアイリーンを連れてこい。すぐにだ」



 カナデが襲撃犯の凶弾に倒れてから数日。

 アイリーンはカナデの寝室だった部屋で、ただひたすらに、悲観に暮れ、漫然と過ぎる時のなかにいた。のことは、いまだに、ぼんやりとしか思い出せない。カナデが胸を血に染めて、床に倒れたあとのことは。アイリーンの頭の中で繰り返されるのは、崩れ落ちるカナデの姿、そして、その直前のカナデの言葉だ。そう、彼女がその波乱の人生において、最期に放った言葉。


 ――「アイリーン。あなたは、やっぱり、ジーンの子だわ」。


 微笑みながらのそのカナデの台詞が、アイリーンの胸中では、幾度も幾度も、木霊することを止めない。そのたびに、アイリーンの菫色の瞳には、じわっ、と涙が滲む。


 ――よりによって、あの言葉が、カナデおばさんの最期の言葉だなんて。いままで、何度も何度も言われた、あの言葉。あなたは父さんの子どもなのよ、っていう、あの言葉。私がそう言われるたびに、それが嫌なの、と否定した言葉。


 アイリーンの心を、なんとも言い表しがたい悲哀が覆う。


 ――私は、父さんのことがいまだに分からない、というのに。


 そして同時に、その台詞を口にしたときのカナデの柔らかで優しい微笑みが浮かび上がる。

 それがもう、アイリーンには懐かしくて堪らない。

 もう一度でいいから、あの笑顔に逢いたくて堪らない。


 しかし、それはもう叶わぬ事だとアイリーンはひとり思う。あのあと、カナデの遺体は駆けつけたタハの配下の兵士に素早く運び去られ、今カナデがどこにいるかもアイリーンは教えても貰えない。葬式でさえ、あげさせてもらえるか定かでない。


 惨事のあと、視察先からタハが慌ててこの別荘に戻ってきたというのは、把握していた。だが、タハはアイリーンの前に姿は見せず、また、ともにカナデを看取ったヴィクトルも同様であった。よってアイリーンはひとり部屋に閉じ込められ、孤独のなか、カナデを想うことしか出来ない。そんな数日間であったのだ。そしてアイリーンは、膝を抱えながら考える。


 ――私は、これからどうすればいいんだろう。遂に、天涯孤独の身になってしまった私は。


 そのとき、唐突に部屋のドアがノックされた。返事を返す間もなく、ドアは外側から開かれ、アイリーンは思わずそちらに泣き腫らした瞳を投げる。

 そこには、青い瞳に暗い影を湛えた長身の若い将校が立っていた。ヴィクトルだった。



「私に……月に行けと仰るのですか? 閣下?」


 ヴィクトルに連れられてタハの書斎に入室したアイリーンは、自らに投げかけられた最高指導者の言葉にしばし唖然とした。

 目前に座すタハの顔は、これまで見たどの肖像画や報道で見るその表情よりも憔悴しきっており、彼もまたカナデの死に大きな衝撃を受けていることが見て取れる。しかし、その顔にはどこか皮肉めいた微かな笑いもうっすらと浮かんでいて、アイリーンはそれをどう解釈すれば良いか分からず、ただ緊張を持ってタハの前に立った。そして緊張を解く間もなく、彼がアイリーンに命じたのが、だったのだ。


 声を震わせて己の言葉を確かめるアイリーンを見て、タハは重々しく語を継ぐ。淡々と、心を凍らせて。


「そうだ。アイリーン。君はこうなってしまった以上、もはやここに身内はいない。だから、月に行くのを私は勧めている」

「えっ、だからといって、なぜ、私が月に……?」


 そこまで口走って、アイリーンはあるひとつの可能性に思い当たり、あっ、と息をのんだ。そして数瞬の後、恐る恐る、それを言葉にする。


「まさか……月には、私の母がいるというのですか……?」

「相変わらず君は頭がいいな、アイリーン。そうだ、君の母のレベッカ・カナハラは月の施設に保護されている。他の被験体と一緒に、だ」

「他の被験体と一緒に……?」

「そのとおり。私はターンとリ・ターンの生き残った被験体を全て集めて、月の施設に保護している。そのなかに君の母もいる。カナデを亡くしたからには、君はそこに行って母に会いに行くのが妥当だと、私は思うわけだよ」

「……でも、私はまだ、カナデおばさんの葬式すら終えていません、閣下」


 アイリーンは弱々しくも、必死の勇気を持って、タハに反論する。自国の独裁者に異を唱えるのは、恐ろしいほどの覚悟が要ったが、あまりに唐突な話の展開に、彼女はそのときそうせざるを得なかった。

 だが、そのとき、タハの目がぎらり、と光った。


 あの目だった。


 ――「君はこの国が好きかね?」。


 カフェでそう問うたときの、あの鋭い眼光だ。アイリーンの背に、途端に悪寒が走る。思わず彼女は茶色のくせ毛ごと、顔をぶるっ、と震わせた。

 その様子を見て、タハが先ほどよりはっきりと、唇に笑みを閃かせる。


「そんなに憂慮することはないよ、アイリーン。カナデの弔いは私が責任を持って果たしておく。それは約束しよう。それに、君ひとりで月に行かせるつもりはない。案内役として、このヴィクトル・ボイツェフ少尉を同行させる」


 そう言われて、アイリーンは自分の背後に控えていた栗色の髪の男の顔を見上げた。するとヴィクトルはアイリーンの驚きの視線を受けて、軽く目礼する。なんら表情を動かすことなく。

 そして、戸惑うアイリーンにタハはなおも笑みを崩さず、言い放つ。


「施設があるのは、月の裏側だ。そうだ、君の父がかつて赴任していた難民収容所の跡地に保護施設はある。どうだ、アイリーン、君の父の生を確かめるという意味でも、君は月を目指すべきだと私は思うんだ。どうだね? アイリーン」


 タハは薄い微笑みのまま、アイリーンにそう、問うた。だがその目は笑っていない。そしてその威厳に満ちた声は、もはや命令にどこまでも近い響きであった。問いかけつつも、アイリーンにその覚悟を質す言葉だった。


 アイリーンに、タハに逆らう選択肢は、与えられていなかった。


 いや、そんなものは、とっくに彼女から奪われていたのだ。彼が「レオパルドおじさん」としてでなく、将軍タハとして目の前に現れたあの夜から、すでに。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?