カナデは、別荘を包む煙が燻る匂い、そして廊下から聞こえてくる銃撃戦の音の只中にあっても、静かにベッドに横たわっていた。自宅であれば、居間の棚に常備してある銃をすぐに取り出して、身に降りかかる危険を自らの手で排除するところであるが、あいにくここはタハの別荘であり、武具の用意などあるわけがない。ましてや病身である。よって、彼女になにもできることはなかった。
扉の向こうから、別荘に残っていたタハの配下の兵士と、侵入者らしき男たちの声が銃撃音に混じって聞こえてくる。タハの居場所を問い質す怒声が聞こえ漏れてくることから推測すると、彼らはどうやら反政府勢力の一味らしい。おそらく、タハの命を狙ってここを襲撃してきたのであろう、と、カナデは悟った。彼女は皮肉に満ちた薄い笑いを唇に浮かべて、軽く目を閉じる。すると脳裏に浮かぶのは、やはりあの頃の光景だ。
遠くなった日々。ユーラシアの大地を踏みしめて進軍し、希望に胸を躍らせて、朝陽を仰ぎ見たあの頃の。
隣にはいつもタハがいて、そしてサリがいた。
――私たちは、たしかに、理想のために戦った。民を苦しめていた連合国の圧政を挫き、ユーラシアに自分たちの主権を実現させるという理想のために。そしてその理想は叶った。でも、それは、ほんの一瞬の出来事に過ぎなかったのよね。そうでなければ、私はここでこんな最期を迎えるはずは、なかったもの。
カナデの胸中は郷愁に溢れる。しかし、そこに悲壮感はない。心に静かに広がるのは、すべてを受け入れようという覚悟と諦観だ。そのなかでカナデは、ゆっくりと自分の人生を俯瞰する。
――いいえ。もしかしたら、私たちの理想は、一瞬たりとも、叶っていなかったのかもしれない。なにしろ私はその結果を見届けることから目を背けて、政府を去ったし、セルジオはサリのために非道な実験に走って民を蹂躙し、サリはその責任を取ってジーンに殺された。その結果としての今だ。
そこまで考えて、はじめてカナデの胸は、ちくり、と痛んだ。カナデは薄い琥珀色の瞳を再び見開く。そして、ゆっくりと自分の心に問い直す。
――だとしたら、私は何のために生きたのだろう。
次の瞬間、カナデの鼓膜を再度の爆発音が叩いた。続いて、寝室のドアが覆面をした数人の男たちによって乱暴に蹴破られる。部屋になだれ込んできた男たちは、寝台に横たわっているカナデに目を留めるや、銃を構え直し、鋭く声を放った。
「女! お前はタハの愛人か?」
「馬鹿言わないで」
「……! タハはどこにいる!? 教えなければ殺すぞ!」
侵入者たちは複数の銃口を向けられても、なおも毅然としている長い白髪の女に一瞬たじろいだ様子だったが、再び語気荒くカナデに迫る。しかしカナデは男たちに薄い琥珀色の瞳をきっ、と向けはしたものの、その唇を動かすことはなかった。男たちは銃の引金に手を掛け、照準をカナデの胸に定める。その様子を、カナデの瞳はさして感慨も無く捉える。
そのときだった。
突如、派手な音がして、寝室の窓ガラスが砕け散った。同時に窓から、目にも留まらぬ早さで黒い影が室内に滑り込む。そして、その黒い影は天井まで高く跳躍すると、宙に身を躍らせたまま、侵入者のひとりに銃撃を加えた。
被弾した男から、断末魔と赤い飛沫が部屋に迸る。そして、どさり、床に転がったその身体の傍に、黒い影は人間のかたちとなって着地した。
「ヴィクトル!」
果たして、窓から飛び込んできた黒い影は、カナデが叫んだとおり、自分の警護を任されていると語ったあの若い将校だった。ヴィクトルはカナデを一瞥し、彼女の無事を確認すると、すかさず残りの侵入者たちに向き直る。彼らは仲間の突然の死に暫し呆然としていたが、我に返ったかのように、次の瞬間には、ヴィクトルに向けて銃を放った。
だが、その銃弾はどれもヴィクトルを捉えることはなかった。ヴィクトルは目にも留まらぬ早さで、すばやく身体を捻り、その銃撃を難なく避けてみせたのだ。
驚いたのは男たちだ。彼らのひとりの唖然とした声が部屋に木霊する。
「……こいつ、弾道を見切りやがった……!」
しかしヴィクトルはその声になんら反応することなく、冷静この上ない仕草で銃を腰のホルダーに戻した。そして、今度は男たちに銃を構えなおす暇も与えず、風を切って突進する。ヴィクトルはまず男のひとりの首に片手を回すと、そのまま腕を持ち上げて、男の喉を締め上げた。喉を潰された男の口から、呻き声と血が滲んだ泡が零れ出る。やがて、首の骨が折れる鈍い音が響き、男が、がくり、とその身を屈し絶命した。
「片手で男ひとり絞め殺すなんぞ……怪力にもほどがある……あんた、化け物か!?」
最後のひとりの男が声を震わせる。そして男は、獣じみた咆吼を上げながらヴィクトルに向かって銃身を振り上げた。
どすり。
鈍い音がして銃身がヴィクトルの右肩にめり込む。しかし、ヴィクトルの氷のような表情は微動だにしない。
「……ひっ……」
男の表情は恐怖に凍り付く。次の瞬間、ヴィクトルは己の肩に沈んだ銃を左手でぐっと掴むと、銃身ごと男を力一杯放り投げた。男の身体は放物線を描いて、部屋の隅へと飛んでいき、壮麗な金の装飾が施された寝室の壁に激突する。こうして最後の侵入者の身体も床に崩れ落ちたのを認めると、ヴィクトルはようやく、身じろぎもせずに彼の一挙一動を見守っていたカナデに声を掛けた。
「カナデ・ハーン。ご無事で何よりです。私が目を離した隙に襲撃を許してしまい、申し訳ありません」
「……ヴィクトル」
「私が戻ったからには、もう、大丈夫です。ですが、奴らの仕掛けた爆発物がもう無いとは限らない。あなたには、建物の外に避難願います」
顔にこびりついた侵入者の血を拭うことも、乱れた栗色の短髪を直すこともなく、ヴィクトルは青い目を光らせながら、淡々とカナデに言葉を投げかける。そんな彼の様子を見て、カナデは確信を持って、ゆっくりと声を掛けた。
「ヴィクトル、あなたは被験体ね」
「……さすがですね、カナデ・ハーン」
「その卓越した身体能力を見せつけられたら、嫌でも分かるわ。ターンなの? それとも、リ・ターン?」
「かつてのあなたと同じですよ。私はターンです。ですが、いまはそのことを語ってる場合ではない。外へ誘導します」
ヴィクトルはなおも表情を変えることなくカナデにそう言い放つと、寝台に近づき、カナデを抱き上げようと両腕を差し伸べた。ところがそのとき、蹴破られたドアの隙間からその部屋に飛び込んできた者がいる。
それは、海辺から別荘への遊歩道を駆け戻り、ようやく別荘に辿り着いたアイリーンだった。
「カナデおばさん!」
「アイリーン!」
「よかったわ! おばさん、無事で!」
アイリーンの顔は煤だらけだ。茶色のくせ毛も、身に纏った白いダウンもところどころ黒く汚れていた。しかし、その菫色の瞳は安堵の色に濡れている。
そんな彼女に厳しい声を投げかけたのはヴィクトルだ。
「君は海岸にいろと言っただろう」
「す、すみません。私、おばさんが別荘にいると思ったら、いてもたってもいられなくて、つい」
アイリーンはヴィクトルの語気強めの言葉に、途端にしどろもどろになって床に視線を投げる。それを見てカナデは皺だらけの顔で柔らかく微笑むと、寝台から起き上がり、アイリーンに歩み寄ると愛しいその手をそっ、と掴んだ。
「アイリーン、ありがとう。その気持ちがなにより嬉しいわ。あなたは、優しい子ね」
「おばさん……」
アイリーンは潤んだ瞳をカナデの顔に向けた。
そこには、父が死んで以来、十何年と親しんできた、口うるさくも心優しい、愛情溢れる保護者の笑顔がある。
それを見て、思わず、アイリーンの唇にも、笑みが浮かんだ。
なんだか、じんわりと、心があたたかくなる。いままでのわだかまりを、雪解けの如く溶かすかのように、じんわりと。
だから、カナデの最期の言葉を耳にしたとき、アイリーンはいつもほど、嫌な気分がしなかったのだ。
「アイリーン。あなたは、やっぱり、ジーンの子だわ」
その次の瞬間、銃声が鳴り響き、そう口にしたばかりのカナデの胸を、背後から弾丸が貫いた。
スローモーションのように崩れるカナデの胴から迸った血潮が、アイリーンの顔に、髪に、降り注ぐ。
ヴィクトルが寝室の壁に叩きつけた男にはまだ息があり、彼が最後の力で放った銃弾が、カナデの息の根を止めたとヴィクトルが理解するまでには、数秒の時間が必要だった。