それから一週間を経ても、アイリーンは父とカナデの関係を知らされたショックから、カナデと口をきこうとしなかった。
いや、顔を合わせるのさえ、避けていた。カナデは相変わらずルースキー島のタハの別荘にて療養生活を送っており、アイリーンも自宅には戻らず、別荘に部屋をあてがわれて滞在していたが、カナデの病室に顔を出すことも稀であった。
アイリーンがタハの別荘に留まっていた理由は、国の最高権力者であるタハの心遣いを無にしたらどうなるか、という恐れ他ならず、ここがタハの別荘でなければ一刻も早く、彼女は家に帰りたくて堪らなかった。ただただ、自宅の自室にこもり、自分の世界に閉じこもってしまいたかった。好きな本の世界に耽溺し、全てを忘れてしまいたかった。いつかそこからも出て現実と相対しなければいけないとは頭では理解していても、今は父のこともカナデのことも忘れていたかった。自分の素性に関わる全てを、意識のなかから投げ捨ててしまいたかった。
今日は透き通ったシベリアの空気が一段とひんやり、頬を打つ冬晴れの日だ。
アイリーンは白いダウンに身を包んで、別荘の建つ崖下にある、岩場が広がる海岸にて、ぼーっ、と海を見ていた。対岸には、ウラジオストクの市街が霞んで揺れている。海はどこまでも蒼く、ちいさな波を白く立てつつも穏やかな様相だ。アイリーンは海風に身体が冷えるのも構わず、岩の上に立ち、ただ水面を見つめていた。
――父さん、あなたはどうして私をこんなにも苦しめるの? 父さんはやっぱり罪に手を染めていた。だけどそれは私を守るためだったとカナデおばさんは言う。そして罪を悔いてカナデおばさんを助けようとした後も、変わらず私を守り続けた、とも。私を守ることに命を注いだ、とも。だけれど、それは私のことを全ての免罪符にしようとしてではないの?
アイリーンは答えを求めるかのように、菫色の瞳を空に投げた。さりとて、それに答えてくれる者は誰もいない。弱々しい冬の陽光が彼女の顔に射す。肩までの茶色のくせ毛が海風に揺れて、頬をくすぐる。それから彼女は、再び海面に視線をゆっくりと戻し、嘆息した。
――分からないわ。父さん、やっぱり、私は、父さんのことが分からないの。
アイリーンは茶色い髪を掻き上げながら、物憂げに俯いた。
「ここにいたのか」
その声に振り返ってみれば、栗色の短髪を浜風に揺らして、長身の将校が岩場に佇んでいた。ヴィクトル・ボイツェフと名乗ったあの親衛隊員だ。アイリーンは彼に向けて軽く目礼をしたが、何も彼に応じる気にならず、そのまま沈黙を守る。すると、ヴィクトルが想像通りの言葉を口にした。
「困るんだよね、あまり別荘から出て回られると。いかにここは一般人は立ち入れない区域とはいえ、私の目の届かないところに足を運ばないで欲しい。私は、閣下から君の警護も頼まれているんだ」
「……すみません」
「そんなに、カナデ・ハーンの顔を見るのが嫌なのか。無情だな、彼女は君の親代わりだろう。父を亡くした後ずっと、彼女に面倒を見てもらってたというのに」
「あなたは、私の素性を、全てご存じなのですね」
ため息混じりにアイリーンがそう零すと、ヴィクトルが何をいまさら、といった顔つきで視線を投げ返す。
「君のことは、閣下からよく話を聞いていたからな。君の父の話とともに」
「閣下は、私の父のことを何とお話になっていたのですか?」
アイリーンはヴィクトルの耳に届くか届かぬかの小声で、問う。どこかで海鳥が鳴いているのが聞こえる。澄み切った空のどこかからその声は、ふたりの間を割って絶え間なく降り注いでいた。
「立派な男だ、と常に仰っておられるよ。彼がいなくてはなし得なかったことがたくさんある、と。それに」
「それに?」
「自分がどんな目に遭おうとも、カナデ・ハーン、そして愛する娘を守り切ったのは、見事だった、とも」
「私には父が分かりません。父の生をどう捉えたらいいかも、今もって分かりません」
アイリーンが堪えきれぬように、ぽつり、と漏らした言葉にヴィクトルは眉を顰めた。海鳥の鳴き声に、ざざん、ざざんと岩に打ち寄せる波音が重なる。
「何故? 君の生は、彼のおかげで今、ここにあるというのに?」
「……それはそうですが」
「それを理解しているなら、君が父を憎む理由は、何もないだろう。そもそも、親などというものは、殆どの場合、子の障壁にしかならぬものだ。そういうものだろう。だったら、君は命を守ってもらっただけでも、親に感謝するべきだ。私は、そんな君が羨ましい」
「あなたの親はそうでなかったと?」
「そんなところだ」
ヴィクトルは抑揚のない低い声で、淡々と語を継いだ。そのどこか諦観に満ちた声音に、アイリーンは思わず彼の顔を仰ぎ見た。ヴィクトルの表情に変化はなかったが、年齢の割に大人びた眼差しの青い瞳は、暗い影を帯びている。それに気付いたアイリーンは、どう答えを返したらいいものか分からなくなってしまって、逃げるように視線をまた波間に泳がせた。
爆発音が轟いたのは、それから十数秒後のことだ。
突如、どぉーん、といった轟音が後方から響き渡り、続いて岩場を揺るがす地響きがヴィクトルとアイリーンの足元を襲った。
「え、えっ?」
「……しまった……! 君はここにいろ!」
アイリーンは何とか姿勢を保ち、岩場に尻餅を付かずには済んだもの、傍らに立っていたヴィクトルが鋭く叫び、顔色を変えて身を翻したのを見るに及び、何か起こってはならぬ事が生じたのだと悟った。ついで、崖上に立つタハの別荘に目を移す。
別荘は、激しい煙に包まれていた。
そこへ向かってヴィクトルが全速力で海辺を駆けていく。
いや、彼が駆けていたのは、海辺ではなかった。ヴィクトルは岩場から大きく跳躍すると、切り立った岸壁に垂直に着地し、そこを起点にまた高く跳ぶ。そしてそれを二度三度と繰り返し、あっという間に二十メートルはある崖上にその身を置いていた。そして、その超人的な動きに呆気に取られ、声も上げられずにいるアイリーンを置き去りにして、ヴィクトルの後ろ姿は、黒煙を上げる別荘の方向へ、あっという間に溶け込んでいく。
――あんな崖の上まで、一気に移動できるなんて……。彼は……もしかして……。
しかし、いまは冷静に思考を働かせている場合ではなかった。アイリーンは、黒煙の立ち上る別荘のなかに自分の保護者がいることに思い至り、思わずその名を叫んだ。
「……カナデおばさん!」
次の瞬間、アイリーンの足も海辺を蹴って走り出していた。海辺と崖上の別荘を繋ぐ遊歩道に向かって。