その日の午後、アイリーンは男と別れてから、一日中ウラジオストクの街を巡った。
カナデに説明したように、求職のあてを探してのことである。アイリーンは街に貼り出された求人広告を片っ端から見て回り、自分に務まりそうな仕事を探して回った。
しかし、国の不安定な状況を如実に示すが如く、なかなか良い求人は見つからない。
ユーラシア革命軍政府の建国の祖であるレ・サリの逝去から十五年あまり時は経過し、ここ数年、当国を巡る状況は悪化の一途を辿っていた。
深刻なのは、国内の反政府勢力による衝突が、日常的に勃発し続けていることである。
サリの逝去後、三年の期限付で指導権を握った、同じく建国メンバーであるセルジオ・タハ将軍は、結局、期限が過ぎても権力を手放すことはなく、いまもユーラシア革命軍政府の最高指導者として君臨している。反政府勢力による反発は、その長期政権への不満が高じてのものだった。これに対してタハ政権は強硬姿勢で相対し、内地の引き締めに躍起になっていた。今日の午後、ウラジオストクの中央広場で行われた公開処刑も、その一環である。
処刑される者は反政府勢力関係者であったり、または軍や公共の食糧や物資を横流しした役人であったり、強盗や殺人の凶悪犯罪人であったりとその時によって異なったが、このような露骨かつ暴力的極まりない権力の
一方、国の外を見れば、一時はユーラシア革命軍に駆逐されるかと見えた、連合統一政府軍も、成立直後の勢いを取り戻していた。月の制空権こそ、統一政府はいまだ取り戻せていなかったが、ユーラシア革命軍政府の内紛に呼応する形で攻勢を強めていた。その勢いは、ユーラシア革命軍政府の支配区域を浸食しつつあり、当国の南端に位置するウラジオストク付近の国境地域では、戦闘の勃発も日常茶飯事になっている。
このような状況下では、安定した職の
それでもアイリーンは嘆息しつつも、見つけた僅かな数の、店員や事務員の募集といった張り紙を見つけては、その商店の扉を叩いて回った。しかし、どの店先でも返答は決まってこうであった。
「学校を卒業したての、十八歳のお嬢さんねぇ。あいにくこちらが欲しいのは、即戦力になる実務経験者なんだよなあ。なんせ、そういった人材が軍隊に徴集されてしまったが故の、求人だからねえ。それに、誰からの推薦もないんじゃ、このご時世、怖くて雇えないよ。そんなに職に就きたいなら、軍に行ってみれば良いじゃないか? あそこなら素性も問わないだろうし、常時募集しているだろうし」
何軒目かの店でも同じことを言われ、アイリーンは頭を垂れてその店を出た。虚しさに溢れる心を抱えた彼女の目に、街角に貼られた、軍による兵士募集のチラシが映る。
――なるほど、こうなってしまえば、もう軍に入るくらいしか自活の道はないのかなあ。でも、カナデおばさん、嫌がるに違いないけど。
心中で独り言ち、アイリーンはそこでようやく、カナデがパンの貯蔵が残り少ないと嘆いてたことを思いだす。食糧が配給制になったのは三年ほど前のことであったが、そこでは十分な量は補給されず、結局人々は街に出て、ひっそりと売られている高値のパンや肉を見つけては買い求めているのが現状だ。
アイリーンは茶色のくせ毛を掻き上げながら、大きく息をつく。
――もう、今日は職探しはこのくらいにしよう。パンと、それとなにか貯蔵のきく食物、それを手に入れたら、家に帰ろう。そうしないと、就職する前に、飢え死んじゃうもん。
そう思いながら裏通りに入れば、途端にパン屋の前に列が出来ているのが目に入る。アイリーンはすかさずその最後尾に並んだ。すでに冬の日の午後は夕暮れを迎えていて、ダウンコートの奥までも冷気が染みこんでくる。
彼女は寒さから意識を逸らすべく、その日の昼の出来事に思いを馳せる。こうして日常のなかに舞い戻ってしまうと、あの「レオパルドおじさん」とのひとときは文字通り白昼夢のようだった。
――次に会うことがあったら、軍に入ること、相談してみようかな。おじさんだったら、カナデおばさんを説得してくれるかもしれないし。
カナデは、なぜか、アイリーンが銃器を扱うのを、ことのほか嫌がる。
国境の戦線がウラジオストク近郊にも伸びてきかねないこの情勢下に置いて、アイリーンの村に住む人々の多くは、自衛のため自宅に銃を常備するようになって久しい。実際、彼女の家にも、カナデがどこからか調達してきた短銃が置かれている。しかし、アイリーンが自分にも銃の扱い方を教えるように口にすると、決まってカナデはこう言って、彼女の願いを拒絶する。
「それは、あなたのするべきことじゃないわ、アイリーン」と。
そして、それ以上のことは、決して口にしないのだ。
そんなことを考えているうちに、アイリーンの胸に、今度は「君はこの国が好きかね?」と問うてきたときの「レオパルドおじさん」の鋭い眼光が蘇る。
――おじさんは、どうしてあんなこと、私に聞いてきたんだろう?
アイリーンはそのときのことを思い出しながら、菫色の瞳を瞬かせ、考え込む。
そうこうしているうちに、パンを求める人の行列は大分、短くなっていた。
結局、アイリーンはその後、複数の商店を回り、黒パンにオイルサーディンやピクルスの缶詰、乾燥豆を手にすることが出来た。大きな袋を抱えて村に戻るバスへ乗り込むときには、すっかり夜の帳が降りていたが、アイリーンの心はこれだけ
口うるさい保護者ではあるが、父と母を亡くした自分を、女手ひとりで育ててくれたカナデは、アイリーンにとっては反発しつつもいまだ大切な存在である。父のことを悪く言わぬようにと、日々、口うるさく諭してくるのには辟易してはいるけれど。
――このところ、父さんの命日もあったし、あと、就職が決まらないことで私もちょっとおばさんにイライラしすぎてたかな。だとしたら、せめて今日のこの食糧を見て喜んでくれるといいんだけど。
バスを降りたアイリーンは、カナデの喜ぶ顔を思い描きながら夜道を急いだ。やがて、ちいさな集落にある、自邸の明かりが見えてくる。
アイリーンは息を弾ませながら玄関の鍵を開け、ドアノブを捻った。
「カナデおばさん、いま帰ったよ。遅くなっちゃったけど、食糧、思った以上に、手に入ったわ」
アイリーンはそう口にしながら、サモワールの音が静かに響く、あたたかな家の中に足を踏み入れる。
そう、部屋のなかはいつも以上に静謐であった。
そして、広くもないリビングを一瞥したアイリーンは、その理由をすぐに知ることとなる。
リビングの赤い絨毯の上に、カナデは長く白い髪を乱して倒れていた。
凍り付いたアイリーンの手から、食糧を詰め込んだ大きな袋が、ばさり、と落ち床に転がった。