幸いなことに、アイリーンが案内した公園内のカフェには、まだ空席があった。ふたりがテーブルに向かい合わせに座ると、無愛想なウエイトレスが注文を取りにやってくる。
男がスープにサンドイッチ、食後の紅茶がセットになったランチを頼んだので、アイリーンも同じものをすかさず頼む。ウエイトレスが去った後、そんなアイリーンを見て、男は楽しそうに笑った。
「好きなものを選んでいいのに、アイリーン。ここは私が奢るんだし」
「え、でも、それは、申し訳ありません」
「いいんだよ。君に会いたいとここに呼び出したのは、私だ。それに君は今、無職なんだろう?」
「ええ……学校では、いい就職先を斡旋してもらえなくて」
「……ふむ、想像していたとおりだ」
コートを脱いで、今は白いタートルネックのセーター姿になった男が頷く。どうやら、男にはアイリーンの事情は筒抜けのようだ。アイリーンは、思わず、消え入りそうな声で呟いた。
「私はいつまで、父さん……いえ、父の罪に怯えて過ごしていけばいいのでしょう……」
「罪、なんて言わないことだ、アイリーン。君の父さんは、君が思っているより立派な人だ。それになにより、君のことを心から愛していた」
「カナデおばさんと同じことを言うんですね」
アイリーンの視線は、テーブルにかけられたクリーム色のクロスへと落ちた。すると男は白い髪をかきあげながら、静かに語を放る。
「そりゃ、ほんとうのことだからな。彼がいなければ、なせなかったことはあまりにも大きい。それに、彼のせいで命を救われた人だって、たくさんいる。そういう男の娘でなければ、長年、金を送ったりしないよ」
そこに先ほどのウエイトレスがやってきて、あいも変わらずの無愛想さで注文したサンドイッチとスープを並べていく。アイリーンと男は、しばらく無言のまま、サーモンとオニオンが挟まれたサンドイッチをぱくついた。
やがて、それを粗方食べ終わったところで口を開いたのは、アイリーンだった。
「……おじさんみたいな立派な人が、お父さんだったら良かったのに」
「アイリーン、私は君に、自分の素性をなにひとつも、明かしてはいないぞ」
紙ナプキンで口を拭きながら男が応じる。
「ええ。でも、死んだ知人の娘に、長いこと、お金とあんな丁寧な手紙を送ってくる人が、そんな悪い人のわけはないです。それにおじさんは、私にご自身のことをこれ以上明かすおつもりは、ないのでしょう?」
「どうしてそう思う」
「話す素振りが、全くないから」
「なかなか勘がいいな、アイリーン。理解してくれて、助かるよ。でも、君には不満はないのかね? 私の正体を知らずに、これからも暮らしていくことに」
「正直言えば、知りたいです。でも」
「でも?」
「……知らない方がいいことも、あるのかなぁ、って思って。それに何より私は、今日、こうやっておじさんと直接会えたことで、なんだか満足してしまいました。自分を見守ってくれる人が、ちゃんとこの世に実在するんだ、って分かって」
アイリーンは、素早く運ばれてきた食後の紅茶にジャムを落しながら訥々と語った。
その胸中は、その言葉ほどすっきりとしたものでは、ない。しかし、同時に彼女の心は「レオパルドおじさん」の顔を見たことでだいぶん満たされていた。そして、そうなってみると、彼の素性を洗いざらい知ってしまうことへの恐れも、生まれていたのだ。
――「レオパルドおじさん」とは、また会う機会があるのではないだろうか。だとしたら、その素性は、徐々に教えてもらっていけば良い。今日のところは、これで、いい。
アイリーンはラズベリージャムの甘さと茶葉のほろ苦さが溶け合った紅茶を飲みながら、自分を納得させるように、そう心の中で独り言つ。すると、男もそのアイリーンの考えを裏付けるような言葉を口にした。
「そうか。それなら、良かったよ。君とはまた会うこともあるだろうから、私のことは、その時にでも」
と、男がそう言ったその数秒後のことだ。
外から地響きのような音が聞えてきて、カフェのガラスをびりびりと揺らした。複数の銃声だった。アイリーンは、はっ、として腕時計に目をやる。針は一時ちょうどを指していた。そこで、彼女は今日は中央広場で公開処刑がこの時刻に計画されていたことを思い出す。
アイリーンは、カフェの他の客と同じように、肩を震わせながら眉を顰める。
しかし、目の前の男は悠然と紅茶を啜っていた。
男は何事も無かったように、ゆっくり紅茶を飲み干し、ティーカップをテーブルに戻す。
そして、暫しの沈黙の後、男の一連の挙動に目を奪われていたアイリーンの顔を覗き込むと、ただ一言、こう問うてきた。
「君はこの国が好きかね?」
「……え?」
「なんてことはない、言葉通りの質問さ、アイリーン」
気のせいだろうか。男の眼鏡の奥の瞳が、ぎらり、と光った気がする。
アイリーンはその日初めて、僅かながらも「レオパルドおじさん」を怖いと思った。そう思いつつも、唇は動いていたが。
「……分かりません。でも、きな臭くなっているとはいえ、いまの世界で一番平穏な国家に暮らしてることは、幸福だと思っています」
「そうか」
男はさして感情を顔に表すことなく、そう呟いた。そして、男はコートを手に席を立った。白髪がふわり、と空調の風に揺れる。
「もう行くのですか?」
「ああ、この後、ちょっと所用があってね。私はこれで失礼する。短い時間だが会えて楽しかったよ、アイリーン。会計は済ましておくから、君はここでもう少しゆっくりしているといい」
「はい……」
「そうだ、何か困ったことがあったら、君の村の駐在のカターエフ署長に相談するといい。レオパルドおじさんがそう言っていた、そう言えば力になってくれる筈だ」
そうアイリーンに向かって告げる男の顔には、会ったばかりの時のような微笑が浮かんでいた。そしてアイリーンにゆっくり手を振ると、レジへと歩み去って行こうとする。
アイリーンはその後ろ姿に、思わず、声を投げかけた。
「レオパルドおじさん、ほんとうに、また会いましょうね」
すると、男はゆっくり振り返り、アイリーンの菫色の瞳をまっすぐ見つめ直した。そしてひとつ頷くと、アイリーンに背を向け、会計を済まし、カフェを出て行った。
からん、と、ドアにかけられたベルの音が響き終われば、アイリーンはただひとりカフェに残されていた。彼女は大きく息を吐き、椅子の背にもたれかかる。
まるで、夢のなかのようなひとときであった。だが、目の前に残されたふたつのティーカップが、そうでないことを告げている。
カフェの外に出た男は、黒いコートに深く身を包むと、公園内を再び、待ち合わせ場所だったニコライ二世凱旋門へ向かって歩き出した。すると、風のような素早さで、彼に近づいてくる者がいる。
「閣下、困りますよ。いくら隠密行動だからといって、いきなり店に入るなど」
「おお、ここまで付いてきていたのか。ご苦労なことだ」
「当たり前でしょう。予定外の行動をされては、親衛隊員として肝が冷えます」
男に苦言を述べた若者は、栗色の短髪をかき上げながら眉を顰める。そして、そのままのちいさな声で、白髪の男に問うた。
「あれが、例の娘ですか」
「ああ、そうだよ、ヴィクトル。お前の父とはなにかと因縁の深い、ジーン・カナハラの忘れ形見だ」
その答えに若者は、カフェのガラス越しに遠く見える、アイリーンの姿に視線を投げる。しかし、黒いコートの男はもはや振り返ることもなく、背筋を正してその場から歩き去って行く。
栗色の髪の若者は、アイリーンから目をそらすと、急いでその威厳に満ちた背中を追った。