「来年一月の、ゆううつな水曜日。それが今日だとよく分かったね。流石に、読書家なだけはある。カナデから聞いていたとおりだ」
白い頬髭を生やした眼鏡の男は、そう言いながら、ゆっくりとアイリーンを見て微笑んだ。
分厚い眼鏡のレンズの奥の瞳は、どんな色をしているのかアイリーンには窺えない。皺が刻まれた顔からは、男が相応の年齢であることが見て取れる。しかし、投げかけられた低い声音は鋭さに満ちていて、見かけほど年老いた印象は感じさせない。
とはいえ、亡くなった父がいま生きていれば四十六歳のはずだから、「レオパルドおじさん」もそれ位の年齢であろうと思っていたアイリーンは、彼がかなりの歳であることに驚きを隠せなかった。つい彼女は、そのことを口から零しそうになったが、初めて会った相手にいきなりそう語りかけるのは失礼に当たると考え直し、ひとまず、男の言葉への返答を口にすることにした。
「すぐに分かりました。「ゆううつな水曜日」と言えば、第一水曜日のことだと」
すると男は眼鏡の奥の瞳を細めて、満足そうに頷いた。公園を海からの冷たい風が渡る。アイリーンの茶色いくせ毛が風に巻き上げられ、彼女は髪を慌てて押さえ込む。だが、男はそれを気に留める様子もなく、淡々と語を継ぐ。
「二十世紀のアメリカの女流作家、ウェブスターの『あしながおじさん』の冒頭に出てくるからね。毎月の第一水曜日は、主人公のジュディにとって、彼女の住む孤児院へ評議員が視察に訪れる「ゆううつな水曜日」である、と」
そう言うと男はアイリーンの菫色の瞳を射貫くように見つめ、笑った。その表情は、さきほどの微笑よりかは茶目っ気に満ちていて、思わずアイリーンも微笑み返す。そして、緊張がほぐれてきたところで、彼女はまだ自分の名前を名乗っていなかったことに気付く。
アイリーンは唇を動かした。その言葉はもう震えていなかった。
「はじめまして。アイリーン・カナハラです」
「こちらこそ、はじめまして。……と言っても君とはずいぶん前に、会ったことがあるのだがな」
「父の葬式で、ですか?」
「いや、もっと昔のことだ。君が覚えていないのも、無理はない」
男はそう言いながら、皮の手袋をした右手をアイリーンに差し出してきた。アイリーンもごく自然に手を差し出し、ふたりは握手を交わす。
ちょうどそのとき、冬空に正午を告げる教会の鐘がどこからか響いてくる。男がそれを耳にして、ちいさく呟いた。
「おお、昼時だ。アイリーン、ここでいつまでも凍えていることもない、どこかで昼食をいっしょにどうだね。といっても、私はこのあたりの地理に詳しくないから、君がどこか案内してくれると助かる」
「あ、えっと。……でしたら、公園内にカフェがあるんですけれど。ただ、かなりちいさいから、混んでいないかどうか」
「構わんよ。混んでいたら、場所を移せばいい。では、そこに行こう。先導してくれるかな、アイリーン」
「は、はい」
アイリーンはその声に、未だ繋いだままだった手をようやく放し、カフェの方向に身を翻した。がっちりとした男の手の力強い感触に、なにか懐かしいものを胸に感じたが、それは言葉に出さぬまま。
そんな彼女を追って、男も歩き出す。
その数秒後、門の近くのベンチに腰掛けていた若い男が、ふたりの姿を目で追いつつ静かに立ち上がったことに、アイリーンは全く気が付かなかった。