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第2話 心を凍らせて

 収容所の扉を潜って一時間後。ジーンは白衣を着た黒い肌の偉丈夫と対面していた。


 所長室に入室してまたも最初に目に入ったのは、壁に飾られたユーラシア革命軍政府国家元首、レ・サリの肖像画だった。だが、それは、先ほどの入り口のスクリーンよろしく、どこの公の場でもこの国では見かける光景なので、さしてジーンには気にはならない。


「ようこそ、月の裏側へ。私は所長のエリック・デュマだ」

「このたび、ここに医師として派遣された、ジーン・カナハラです。以後、よろしくお願いします」


 目前にデュマの浅黒い右手が素早く差し出されたのを見て、ジーンは慌てて自らの手をも差し出し、握手を交わした。


 むろん、アイリーンはこの場にはいない。アイリーンは収容所の女性職員たちに預けられ、父より一足早く、これからの生活の場である宿舎に連れて行かれた。ジーンと離れるとき少しぐずったものの、職員たちにあやされて、最後には所長室に向かうジーンに、笑顔でおおきく手を、ひらひら、と振って見せた。

 その顔はなんとも愛らしく心和むもので、ジーンはアイリーンの存在を胸に刻み込むことで、今、自分は生きながらえているのだと、再認識せざるをえなかった。


 ――アイリーン、お前のことは、俺が守るからな。たとえ、この手を汚すことになっても。


 そんな想いを胸に浮かべながら対峙しているのが、デュマにはお見通しだったのであろうか。ついで、デュマがジーンに語りかけた台詞は、早くも、これからのジーンの仕事について、鋭く踏み込むものであった。


「ジーン、ここは地球から溢れた戦争難民が送り込まれる収容施設だ。だが、それは表向きの顔に過ぎない」

「存じています、デュマ所長」


 ジーンの即答に、デュマの口角が僅かに上がる。デュマは人の悪そうな笑いを顔に浮かべると、ジーンに改めて向き直った。


「ふむ。ではジーン、この施設について何を知っているか、答えてみよ。所長の私自ら試験してやる」


 その問いにジーンはまたもや迷わず答えた。一瞬の躊躇いも見せず。心を凍らせて。


「表向きは、難民収容所。ですが、その裏で、難民を被験体とした人体実験を行う研究所であると聞いています」


 ジーンの淡々とした返答を、デュマは薄い笑いで受け止めつつ、ついでジーンに問いかける。


「我が軍の情報統制もたいしたことないな。ジーン、その情報はどこで耳にした?」

「前赴任地です。私は先日までバイカリスク基地の軍医でした。そこでは下級兵士はともかく、軍の尉官以上の人間なら、誰もが噂にしていたことです。我が国にはそういった研究所がいくつかあり、そのなかでも月面の難民収容所はそれの専門施設であると」

「そこまで情報が漏れているとは、遺憾なことだな。だが、なら説明が省けて良い。ジーン、君のここでの仕事は、ならば、分かるな?」


 いつの間にかにデュマの顔からは笑いが消えている。その鋭い眼光に気圧されそうになり、思わず、ジーンは短く肯定の意を述べるに留めた。


「はい」


 だがデュマはその答えには不満足のようであった。彼は容赦なくジーンに再度の返答を促した。


「はい、だけでは分からない。具体的に口にしてみろ」

「表向きは、難民収容所の医師。……ですが、真の任務は……難民を対象とした人体実験の研究員です」


 ジーンは変わらず淡々と、知りうる限りの現実を述べた。述べたつもりだったが、果たして声は震えていなかったかどうか。言い終わってみれば、その自信は揺らいでいる。


 ――まるで、医官志望生の頃の、口頭試問みたいだな。


 ジーンは些かこの場に不釣り合いな、仄かにあたたかい、セピア色の記憶を意識に泳がせた。


「よく分かっているな。安心したよ。ジーン」


 ジーンの言葉に、デュマが満足げに頷く。どうやら、いまのところ、口頭試問は合格のようだ。ジーンは半ば安堵しながら、だが半ば踏み戻ることのできぬ道に自分が向かっていることを自覚しながら、デュマの言を待つ。暫しの沈黙の後のデュマの言葉は、果たして、ジーンの予想通りのものであった。


「だが、それをここで自ら口にしたと言うことは、その任務に粛々として当たる決意表明と見なして、いいのだな?」

「はい。その覚悟はできています」

「本当にか?」


 デュマのアイスブルーの大きな瞳が、ぎょろり、とジーンを凝視する。それでもジーンは同じ答えを繰り返すしかなかった。


「はい」


 そのとき、デュマの目はぎらり、と光った。


「ジーン、それは違うだろう」


 そして、ジーンの顔を覗き込み、ゆっくりと、問い質す。

「君が、いやいや、この月の裏側に赴任してきたのは、君の経歴を見れば明らかだ。私が、君がバイカリスク基地で不祥事を知らないとでも?」

「それは……。いや、確かに、仰せのとおり、私は自らこの研究所への赴任を希望したわけではありません。……ですが」

「ですが?」

「赴任したからには、覚悟は、出来ています」


 ジーンの視線はかろうじてデュマの顔を射貫くことができていたが、凍らせた筈の心は、その緊張に耐えきれず、次第に激しい鼓動を体内に響かせる。ジーンは知らず知らずのうちに、密かに唇を噛んだ。早く、この尋問にも似た時間が過ぎゆくことを祈念しながら。


「そうか、立派な覚悟だ。ジーン・カナハラ。長旅で疲れたことだろう、今日はもう宿舎に行って休め」


 そのデュマの言葉に、ジーンはこの初対面の時間において、自分がどうにか体面を保てたことを知り、ほっとする。だが、表情を緩ますわけにはいかない。ジーンは最後の気力を振り絞って、デュマに一礼した。するとデュマが笑って、こう言いながら、ジーンに部屋からの退出を手振りで促す。


「明日、君の同僚を紹介する。楽しみにしていたまえ」


 ジーンが目礼すると、部屋のドアが即座にスライドして開いた。部屋から退出するジーンの背を、デュマの野太い声が打つ。


「君の働きに期待しているぞ」


 ジーンは振り向いた。

 だが、そのときには、所長室のドアは再びスライドして閉じていた。なので、どんな顔でデュマが彼にそう声を掛けたか、ジーンには分からずじまいだった。


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