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第41話 お日さまに向かって

昇る




 ソウギの死、そしてアライブの失踪から三ヶ月が過ぎた。

 厳しかった冬も去り、街には少しずつ春の兆しが訪れ始めている。

 絵筆を顔の高さで動かしながら、水野はもうすぐ満開の花を咲かせるだろう桜の木を見上げた。

 この美しさを白紙のスケッチブックにどう落とし込んだものかと、彼女は考えを巡らせる。

 悩む水野の脳内に、日向昇の姿が過った。


「この花が咲いたら、会えるかな」


 満開の桜の下で笑い合えたらどれだけ幸せだろうかと、彼女はぼんやり考える。

 しかしそれがもう叶わない夢であることを、水野は知っていた。


「日向さんに……」


 先月、警視庁はアライブを含む全ての特危獣の死亡とそれに伴う特危獣事件の収束、そして特撃班の解体を公的に発表した。

 初めは半信半疑だった市民たちも次第に特危獣の脅威を忘れ、今では平和な日常生活を送っている。

 死の恐怖から解き放たれた彼らの表情には、深い安堵の色が滲んでいた。


「私、忘れない。日向さんや特撃班の皆さんが、命懸けで私たちを守ってくれたことを」


 心の中で笑いかける昇の姿が、かつて約束を交わしたノボル少年と重なる。

 虚空にそっと小指を伸ばし、水野は優しく微笑んだ。


「ありがとう、昇くん」


 彼女に返事をするように、太陽が青い空の頂点に座す。

 同じ頃、月岡たちもまた特危獣のいなくなった世界を生きていた。


「この付近で、不審な人物を見かけませんでしたか?」


「いや、見てねえな」


 月岡の質問に、火崎は少し考え込んでから答える。

 月岡が事務的に頭を下げた。


「分かりました。ご協力ありがとうございます。失礼します」


「あ、月岡お兄さんだ!」


 火崎流道場を立ち去ろうとした月岡を、少女の声が呼び留める。

 駆け寄ってきた少女を、火崎が窘めた。


「さくら。道場で待ってろって言ったろ」


「だって、お兄さんにお礼言いたかったんだもん!」


 火崎の愛娘・さくらはそう言って、月岡に向き直る。

 彼の目を見上げて、彼女は深々と頭を下げた。


「おじさんたちが怪物を倒してくれたお陰で、パパやママともっと沢山過ごせるようになった。だから、ありがとう!」


「……どういたしまして」


 月岡はぎこちなく微笑み、さくらの頭をそっと撫でる。

 さくらは勢いよく顔を上げると、早足で道場へと戻っていった。


「さくらだけじゃない。道場の子供たちも、前よりずっと活き活きするようになった。妻も……あかねも嬉しそうにしてた」


 稽古に打ち込む子供たちの掛け声が、月岡たちの元に届く。

 火崎が不意に呟いた。


「日向にも、聞かせてやりたかったな」


「……はい」


 感傷に浸る月岡を、通信機の着信音が現実へと引き戻す。

 電話の主と短いやり取りを交わすと、月岡は火崎に向き直って言った。


「では、そろそろ」


「ああ。力になれなくて悪かったな」


「いえ。失礼します、島先輩」


 かつての師匠に見送られ、月岡は道場を後にする。

 その足で東都生物学研究所の扉を叩くと、金城が月岡を出迎えた。


「お久しぶりです、月岡さん」


「ああ。白衣が様になってきたな、金城」


 金城は現在、木原が立ち上げた新たな研究チームに所属している。

 進化の種や特危獣の技術を平和利用することを目的に設立されたこの研究チームは、時折事件の捜査協力も請け負っていた。


「頼まれていた薬品の成分分析は既に完了しています。こちらへどうぞ」


「ありがとう。流石の手際だな」


 金城は月岡をソファに座らせて、分析結果を記載した書類を手渡す。

 書類にざっと目を通しながら、月岡が言った。


「ところで、木原さんはどうした?」


 金城は困ったような表情を浮かべて、壁際のソファを指差す。

 壁と背もたれに挟まれるようにして、木原がすうすうと寝息を立てていた。

 髪はいつにも増してぼさつき、乱れたアロハシャツからはへそがちらりと覗いている。

 元同僚のあまりにもずぼらな姿に、月岡は思わず呟いた。


「何て無防備な……」


「今朝まで五徹してたんです。見かねて低反発枕を投げつけたら、気絶するように眠ってしまいました」


 苦笑いを浮かべつつ、月岡たちは机に戻る。

 壁にかかったアナログ時計は、既に正午過ぎを指していた。


「俺はそろそろ行くから、木原さんにはよろしく伝えておいてくれ」


「……もう少しゆっくりしていけばいいのに」


「そういうわけにもいかん。それに、俺は仕事をしている時が一番落ち着くんだ」


「月岡さんも、木原さんのことを言えませんね」


「……そうかもしれないな」


 月岡は二人に別れを告げて、研究所を後にする。

 急いで本庁に戻ろうとする彼の鼻腔を、不意に山椒の香りが擽った。


「ここは……」


 麻婆堂の暖簾を眺める月岡の脳裏に、仲間と過ごした日々の記憶が蘇る。

 思えば自分と木原は、ここに泊まり込む日が多かった。

 昇の監視役––名目上は––を最低一人は置かなければならないという理由もあったが、何より居心地がよかったのだろうと今にして思う。

 しかし今は、この店の敷居を跨ぐ気にはどうしてもなれなかった。


「シズちゃーん!!」


 立ち尽くす月岡の耳に、懐かしい声が響く。

 研究所で爆睡していたはずの木原が、息を切らして駆けてきた。


「酷いよシズちゃん! 何で起こしてくれなかったのー!?」


「すみません。起こすのが申し訳なくなるほどぐっすり寝ていたので」


「まあいいや。お昼まだでしょ? 久しぶりに一緒に食べようよ。近況報告もしたいしさ」


「……分かりました」


 二人は麻婆堂の暖簾を潜り、並んでカウンター席に座る。

 広げたメニュー表には、レギュラーメニューに昇格した日向スペシャルの姿があった。


「日向スペシャル、2つで」


「ヒュウスペ2つ入りましたー!!」


 若い従業員の声が響き、厨房で炎が燃え上がる。

 料理が出来上がるのを待ちながら、木原が徐ろに口を開いた。


「シズちゃん、捜査一課になったんだって? 凄いじゃん」


「特危獣事件が収まっても、人間の犯罪はまだまだ無くなりませんからね。市民の平和を守るため、これからも戦い続けます」


「よっ、捜査一課9係!」


「9係ではないですが……」


 月岡は苦笑しながら、木原の褒め言葉を受け流す。

 息継ぎに水を飲んだ隙を突き、今度は月岡が言った。


「木原さんこそ、新しい研究チームを立ち上げたそうで」


「うん。ソウギが研究してた進化の種の技術を、どうにか平和利用できないかなって」


 木原の研究チームには、金城の他にも数多くの優秀な人材が在籍している。

 扱う物が物だけに反対意見や疑問の声は絶えないものの、研究は概ね順調に進んでいた。


「あたし信じてるんだ。恐ろしい力でも、正しく使えば誰かの役に立てるって」


「……日向昇のように、ですか」


 木原は静かに頷く。

 日向昇の失踪は、彼女の胸にも辛い出来事として刻まれていたのだ。


「今でも考えてるよ。何でヒューちゃんが救った世界に、ヒューちゃんの居場所がないんだろうって」


「木原さん……」


「でも諦めたわけじゃない。あたしたちは必ず、ヒューちゃんを人間に戻してみせる」


 それこそが、研究の最終目標。

 決意を新たにする彼女たちの元に、店長が二人前の大皿を持ってきた。


「はい、日向スペシャルお待ちどう!」


 月岡と木原は同時に手を合わせ、目玉焼きの乗った麻婆豆腐を一口食べる。

 木原が頬を押さえて言った。


「美味しい!」


 決戦前夜、昇に振る舞った試作品よりも更に洗練された味わいが、月岡と木原の腹を満たす。

 二人の笑顔を横目に見ながら、店長は新たな注文に応えるべく厨房に戻っていった。


「ええ。とても美味しいです」


 暫く、賑やかで穏やかな時間が流れる。

 やがて月岡たちは日向スペシャルを食べ終え、会計を済ませて店を出た。

 時間はまだもう少しある。

 腹ごなしがてら、二人は近くを散歩することにした。

 他愛もない世間話をしながら、不揃いな歩幅で公園を歩いていく。

 桜の木の下で絵を描く水野の姿を見つけて、木原が元気よく駆け寄った。


「やっほー水野ちゃん!」


「お久しぶりです、木原さん」


 スケッチブックから顔を上げて、水野が軽く会釈する。

 これではどちらが社会人か分からないなと呆れつつ、月岡も挨拶した。


「こんにちは、水野くん。……その絵は?」


 スケッチブックの中で開きゆく桜の蕾は、美しくも逞しい生命力に満ちている。

 絵のモチーフとなった桜の木を見上げながら、水野は明るく言った。


「新作です。実は、日向さんに見せようと思って」


 表向きには、昇は死んだことになっている。

 それでもまだ、彼女は昇の生存を信じていた。


「私たち、また会えますよね」


「……うん。絶対会えるよ!」


「また会えるさ。俺たちが、生きることを諦めない限り」


 月岡と木原は力強く答える。

 どこまでも澄み渡る青空に、彼らは友との再会を祈り続けるのだった––。





 ––いつかの時代、どこかの場所。

 果てしなく続く長い道を、一台のバイクが走っていた。

 乗っているのは、獅子と山羊、蛇の特徴を持つ異形の男。

 全身に風を浴びながら、彼はバイクのスピードを上げる。

 かつて英雄とされたその異形の名を知る者は、もういない。

 それでも彼はあてのない旅をしながら、人知れず命を救い続けていた。

 あの日の吹雪が降り止むまで、名もなき異形は今日もゆく。

 人間として生きるために。

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