人間の価値
特撃班と共存の会が共同戦線を結んでから数日後、草木すら寝静まった夜。
興梠は蝋燭に火を灯し、その灯りを頼りにして詩集を読み耽っていた。
瞳を閉じて詩の世界に浸り、一節一節に込められた意味や想いを噛み締める。
ようやく全てのページを読み終えると、興梠は蝋燭の火を吹き消して部屋を出た。
「お帰りなさい、大熊さん」
仕事を終えて帰ってきた大熊を恭しく出迎え、厚手の上着を脱がせる。
微かに残る香りを感じて、興梠が穏やかに微笑んだ。
「また森で夜風を浴びてきましたね」
「時々、無性に風を感じたくなるんだ。今の時期は特にな」
「『わたしの心を掻き乱すもの 秋の夜風と君の優しさ』」
興梠が徐ろに詩の一節を誦んじる。
大熊が口を開いた。
「自作の詩か。お前は本当に詩が好きだな」
「詩の世界には美しいものしかありませんから。……人間と違って」
「だが、詩を生み出したのは人間だぞ?」
興梠は答えない。
代わりに戸棚から豆の入った袋とミルを取り出し、慣れた手つきで豆を挽き始めた。
「私は元の四人でいられればそれで満足です。大熊さんは違うんですか」
静寂の間も、興梠は珈琲を作り続ける。
そして彼女は人数分のカップに透き通った黒を注いだ。
四種の豆をブレンドした、興梠にしか淹れられない特別な一杯。
大熊はカップに砂糖とミルクを入れ、白く濁った珈琲を飲んで言った。
「すまない」
「謝らないでください。そんなあなただから、私は……」
興梠はそれ以上何も言わず、無心で珈琲を啜る。
二人きりの時間は、夜が明けるまで続いた。
「お二人とも、どうぞお気をつけて」
翌朝。
八百屋の手伝いに出かけた昇と月岡を見送ると、金城はその足で村を歩き始めた。
村の手伝いや家事の担当は当番表によって決められているのだが、この日の金城は何の仕事も与えられていなかったのである。
そして金城は貴重な休みを利用し、村の郷土資料館へと足を運んでいた。
「奇遇ですね。こんな所で出会うなんて」
先んじて資料館に入ろうとしていた興梠が、執事のような所作で礼をする。
金城も釣られて頭を下げた。
「あなたも調べ物ですか?」
「ええ。よりよい詩を作るためには、先人の足跡を辿ることも必要ですから」
「そうですか。よければご一緒しても?」
やんわり断ろうとして、興梠は昨晩の大熊とのやり取りを思い出す。
彼女は戯曲の中に登場する紳士的な男を想像すると、その台詞を一言一句真似て言った。
「いいでしょう。お手をどうぞ、お嬢様」
「ありがとうございます。……お嬢様?」
金城は戸惑いつつも興梠の手を取り、資料館の中に入っていく。
二人は暫く無言のまま、ガラスケースの中に飾られた展示物を見て回った。
「これは、かなり最近のもののようですね」
最後の展示物を眺めて、金城が呟く。
熊の毛皮と共に飾られた号外新聞の見出しを、彼は噛み締めるように読み上げた。
「『凶悪熊、遂に討たれる』……ですか」
数年前、この村に現れた一頭の熊。
村に甚大な被害を出したその熊の死を知らせる文面には、節々に安堵感が滲み出ていた。
「討たれるべきは人間の方だというのに」
興梠が冷たい声で呟く。
戸惑う金城に、彼女は淡々と続けた。
「この熊が村に甚大な被害を与えたのは事実。ですが人間はもっと惨い仕打ちを沢山してきました。熊が村に出たのも、元を正せば人間が棲家を奪ったせいでしょう?」
興梠の言葉を聞く金城の頭に、一つの疑問が浮上する。
興梠が黙り込んだ時を見計らい、金城は疑問をぶつけた。
「そこまで人間を嫌うなら、何故共存の会にい続けるのですか?」
「……大熊さんがいるからです」
興梠は天井を見上げて、初めて出会った日の大熊を思い出す。
虫の息だった興梠に新たな生と居場所を与えた大熊は、綺麗な瞳で大それた夢を語っていた。
「彼はあの日の言葉通りに仲間を集め、人間の姿を手に入れ、人間の村で暮らし始めた。……本当に愚かな男ですよ」
「心配なのですね、大熊さんのこと」
興梠は答えない。
沈黙の中に秘めた本心を見透かして、金城が穏やかに言った。
「私にも似たような知り合いがいます。生きることそのものを愛している、真っ直ぐな男が」
「……私は大熊さんと同じ視座に立ちたい。こんな濁った感情など捨てて、彼の夢は私の夢だと胸を張って言いたい。そのために、あなたの知恵をお貸しいただきたい」
ようやく本心を吐き出して、興梠は深々と頭を下げる。
しかし金城が返答を考えていると、彼女はすぐに元の冷淡な態度に戻った。
「返事は手短にお願いします。私が人間に頭を下げることなど滅多にないのですから」
「すみません。私でよければ、喜んで力になりましょう」
「……感謝します」
秘密の協力関係を結び、二人は資料館を後にする。
だが、影でほくそ笑むソウギの存在に、彼らは最後まで気づかなかった––。
———
愛と哀の鎮魂歌
「これとね、あとこれちょうだい」
膨らんだ買い物袋から、村人が幾つかの野菜を取り出す。
月岡の手に代金を握らせて、年老いた村人がにっこりと微笑んだ。
「はいよ。いつもありがとうね、色々手伝ってもらっちゃって」
「ええ、まあ」
「優しくて手際もいいし、おまけにイケメンときた。都会に置いとくには勿体ないよ。あんたうちに住みな!」
「それはちょっと……」
その後も長々と話し込んだ末、村人は家に戻っていく。
最後の客を見送って、月岡が心底疲れ切った様子で言った。
「八百屋の仕事とは、思ったよりハードなものだな……」
「でも、結構楽しかったですよ。お客さんと色んな話ができて」
昇は八百屋のエプロンを脱いで、晴れやかに背筋を伸ばす。
二人が帰り支度を始めようとしたその時、金城が息を切らして駆けてきた。
「すまん金城、今日は店じまいだ」
「そうじゃなくて! あの、興梠さん見ませんでしたか?」
「いや、見ていないな」
昇も頷く。
金城は肩を落として言った。
「一緒に出かけていたんですが、急に姿が見えなくなりまして。ここにいないとなると、一体どこに……」
その時、森の方で少女の悲鳴が響く。
三人で向かった現場にて、金城は興梠との再会を果たした。
最悪の形で。
「興梠さん、何故!?」
恐怖に震える少女を逃して、金城が叫ぶ。
興梠––特危獣クリケットはバイオリン型の鈍器を地面に突き立てて、冷徹に言い放った。
「愚問ですね。特危獣が人間を襲うのは自然の摂理でしょう?」
「大熊さんの夢はどうなるんですか! 私との約束は!」
「そんなもの、私の知ったことではない!」
金城の首を掻き切らんと、クリケットはバイオリンの弓を構えて彼に迫る。
すかさず昇が割って入り、交差させた両腕でクリケットの一撃を受け止めた。
「興梠さん、あなたに人間は襲わせない!」
「ならば力づくで止めてみなさい!」
クリケットの突き出した弓を踏み台に、昇は天高く跳び上がる。
そしてアライブに変身し、落下の勢いを乗せてゴートブレードを振り下ろした。
激しい斬り合いの中、アライブは強烈な前蹴りでクリケットを吹き飛ばす。
アライブが大技を繰り出そうとした瞬間、低く威圧感のある声が轟いた。
「何をやっている!!」
「大熊、さん……」
アライブは戦いの手を止め、呆然と大熊を見つめる。
険しい表情で詰め寄る大熊を、クリケットは逆に脅した。
「大熊さん。邪魔をすれば村に降りて、我々の正体を明かしますよ」
特危獣であることが露見すれば、もはや集落にはいられなくなる。
黙り込んだ大熊に、彼女は本心を曝け出した。
「大熊さん。私が本当に共存したかったのはね、共存の会のメンバーだけだったんですよ。この四人だけで、ささやかな幸せを享受していれば! ……それでよかったのに」
「それは違うぞ興梠! 閉じた世界に意味はない。お前にも分かるはずだ」
「私には分かりません。あなたのことも……何もかも」
クリケットは大熊に背を向け、自らが切断した切り株に腰掛ける。
そして蒼く澄んだ空を見上げて、どこか慈悲深く言った。
「大熊さん、最後に一曲歌ってあげましょう。無垢なる夢、届かない理想への憧れ。私が捨てた全てを持っているあなたへの、せめてもの手向けです」
興梠は深く息をして、最期のバイオリンを弾き始める。
その音色はアライブたちに戦いを忘れさせ、林の生き物すらも虜にした。
美しき奏者の下に集う鳥や小動物、そして人。
それはまるで、彼女が愛した戯曲の一幕のようであった。
「断言しましょう! 大熊総一、あなたの理想は破綻する!」
演奏を終え、興梠は慟哭に似た預言を遺す。
そして突風が吹き抜けた時、彼女の姿はもうどこにもなかった。
「よくやってくれたね、興梠くん」
森の奥を彷徨う興梠に、ソウギが話しかける。
濃緑色の液体が入った試験管をゆらゆらと揺らしながら、彼は悪意を隠しもせず言った。
「君のお陰で村は守られた。君は英雄だよ」
液体の正体は、特危獣の進化を促進させるための新薬。
ソウギは興梠が共存の会を離脱しなければ、村の水道にこの薬を混ぜると脅したのだ。
故に興梠はわざと村で暴れ、共存の会を去った。
軽薄に振る舞う目の前の男を見て、興梠の胸に怒りが込み上げる。
彼女は特危獣クリケットに変貌すると、バイオリン型の鈍器を振り上げた。
「護衛の猟犬もつけずにのこのこと現れた、その愚かさを恥じなさい」
「護衛ならいるさ」
「何をふざけたこと、を……!?」
鈍器を振り上げようとした刹那、クリケットは不意に痛みを感じて倒れ込む。
血に濡れたツルハシを手に、モグヒコがいつも通りの笑顔を見せた。
「モグヒコ……?」
モグヒコは何も言わぬまま、ツルハシで何度もクリケットの体を打ち据える。
彼女が物言わぬ肉塊となった頃、ソウギが彼を制止した。
「もういいよ。それ埋めて」
「分かった。オイラ、穴掘り名人!」
モグヒコは深い穴を掘り、クリケットの体をそこに埋める。
土を被せて証拠を隠滅すると、ソウギがバイオリンの弓を墓標代わりに突き立てた。
「英雄の最期だ。素質ある者が見れば、さぞ劇的な戯曲に仕上がるだろうね。……モグヒコ、引き続き監視を頼むよ」
「うん。オイラ、みんなのとこ戻る」
土の下で死を待ちながら、興梠は不思議な充足感に包まれる。
今際の際、彼女はようやく答えに辿り着いたのだ。
「大熊さんの愛した人間を、私も愛する。最初からそれでよかったのですね。……ありがとう、金城さん」
生まれ変わったら人間の詩人になりたいと願いながら、興梠は静かに瞳を閉じる。
興梠の胸に、バイオリンの音色はいつまでも響き続けていた。