生きてみたい
病室の真っ白なカーテン越しに、柔らかな光が射し込む。
枝先に残った最後の葉が、風に靡いて揺れている。
外から響く子供たちの声に耳を傾けていると、昇の主治医である
「おはようございます、先生」
「おはよう昇くん。早速だけど、採血の時間だよ」
「分かりました。お願いします」
昇は病衣の袖を捲り、骨と皮だけの細腕を差し出す。
榎本が手早く採血を済ませると、昇は無垢な笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます。相変わらず上手ですね」
「まあ、この仕事始めて長いからな」
「でもいいんですか? こういうのって、普通は看護師さんや研修医さんの仕事なんじゃ」
「いいんだよ。君の体のことは、私が一番よく知っているからね」
榎本の言葉に、昇は深々と頷く。
それから瞳を閉じて、この病室で過ごした年月を数えた。
「15年……ですか」
3歳の時、日向昇はこの東都総合病院に入院した。
両親と離れて過ごす検査と治療の日々は幼い昇に耐えられるものではなく、彼は何度も涙を零した。
弱った心に漬け込むように病魔は体を侵食し、昇の命を蝕んでいく。
震える彼の手を包みながら、榎本は昇の目を見て訴えかけた。
「生きるんだ。どんなことがあっても、それだけは諦めちゃいけない」
「生きることを、諦めない……?」
「そうだ。大丈夫。先生が必ず助ける」
彼は言葉通りに手術を成功させ、日向昇を死の淵から救い出した。
幼い昇の心に、初めて生きる希望が灯った瞬間だった。
そして彼は宿った希望を大切に育てながら、厳しい闘病生活を生き抜いてきたのである。
「あの日から、君は泣かなくなった。油断はできないが、先生は君が元気になることを信じているよ」
「おれも信じてます。いつか病気を治したら、美味しいご飯を沢山食べて、思いっきり走って泳いで……友達も作って! そういう普通の生き方がしたいです!」
「そうだな。では、先生はそろそろ行くよ。何かあったら呼んでくれ」
病室を後にする榎本を、昇は手を振って見送った。
それから彼はいつものように検査をこなし、景色を眺め、本を読み、より良い明日を夢見て眠りについた。
そして次の朝、昇が目を覚ますことはなかった。
エンゼルケアを施された昇の体は葬儀屋に引き渡され、納棺された状態で霊柩車に乗せられる。
霊柩車のハンドルを握る葬儀屋の男が、景色を横目に見ながら呟いた。
「長い闘病生活の末に命を落とした、身寄りのない若者か」
男はアクセルを踏み込み、火葬場とは逆の方向へと向かう。
峠の道を走りながら、葬儀屋の男は酷薄な笑みを浮かべていた。
「実験材料にはちょうどいい」
———
殺戮の獣
真夜中の雑木林を、一人の若者が疾走していた。
肌寒い空気に体力を奪われながらも、自分に迫る『何か』から逃げ延びるべく懸命に走る。
しかしとうとう力尽き、若者は小石に躓いて倒れ込んでしまう。
踠く彼の背中に、『何か』は鋭い爪を振り下ろした。
「がっ!」
爪は服ごと皮膚を切り裂き、背中から赤い血が流れる。
追い詰められた若者の瞳に、何かの輪郭がぼんやりと映った。
2メートルはあろうかという、人と狐が入り混じったような異形の怪物。
怪物は爪についた血を舐め取り、白い息を吐いて若者に迫る。
そして怪物は彼の首筋に牙を立て、その血肉を貪った––。
「……と、これが昨晩の出来事ですね」
素早くメモを取りながら、スーツを着た黒髪の青年は向かいの老人に確認を取る。
老人は何度も頷くと、涙ぐんで言った。
「殺されたのは、わしの息子だったんです。生きてさえいれば、来月にもわしのまんじゅう屋を継いでくれる筈だったのに……」
「心中お察しします。では、また後ほど」
青年は姿勢を正して敬礼すると、未だ事件の痕跡を色濃く残す雑木林に向かう。
若い鑑識官が青年の存在に気付き、立ち上がって敬礼した。
「
「何か手掛かりは掴めたか」
「状況から見て、
「……そうか」
鑑識官の報告を受け、月岡は改めて事件の概要を整理する。
雑木林で若者が殺害されるという事件は既に7件起きており、その全てがフォックスによる犯行だった。
人智を超越した異形の怪物、特危獣。
これまで彼らが繰り広げてきた惨劇を思い、月岡は拳を握りしめる。
奪われた命の最後の姿を示す白線を見据えて、彼は力強く告げた。
「今夜中に片付ける」
「相手は怪物ですよ!? そんなことができるわけ」
「できなきゃいけないんだ」
鑑識官の言葉を遮り、月岡は雑木林を後にする。
準備を終えて戻った時、事件現場はすっかり冷え込んでいた。
防寒対策に紺のトレンチコートを着込んでも、なお寒い。
乾いた風が枝葉を騒つかせ、夜空に不気味な音楽を響かせる。
月岡は通信機を取り出すと、本部に連絡を入れた。
「こちら月岡。これより作戦行動に入ります」
「了解」
連絡を終えた月岡は拳銃を構え、懐中電灯で前方を照らしながら慎重に雑木林を歩いていく。
月岡の足が枯れ枝を踏み折った瞬間、それは現れた。
「来たかっ!」
側面から飛びかかる影を身を翻して躱し、弾丸を数発撃ち込む。
懐中電灯の光で曝け出された襲撃者の姿は、老人の情報通りの姿をしていた。
「特危獣009……フォックス」
「グォアア!!」
フォックスは唸り声を上げて跳躍し、多くの人間を殺した爪を突き立てる。
月岡は寸前で回避したものの、フォックスの爪は太い木の幹を容易く貫いた。
フォックスが幹から腕を引き抜いている隙に距離を取り、更なる銃撃を仕掛ける。
しかし効果はまるでなく、フォックスは人間が虫刺されにするように撃たれた箇所を掻いた。
「……ッ」
そして幹から腕の自由を取り戻し、両手の爪を擦り合わせながら月岡に迫る。
月岡は勝負を捨てることなく、相手の動きを観察しながら拳銃を構え直した。
「奴が口を開けた瞬間、零距離で撃つ。そうすればあるいは……!」
しかしフォックスの身体能力は、彼の予測を遥かに超えていた。
一瞬にして月岡に肉薄し、拳銃を叩き落とす。
フォックスが月岡の血を啜るべく牙を向いた瞬間、骨を砕くような音が轟いた。
「グァバッ!?」
しゃがれた悲鳴を上げて、フォックスが倒れ込む。
狐の特危獣を一撃で打ち倒したのは、更なる異形の存在だった。
頭部は獅子の鬣に覆われ、山羊の剥製を思わせる胸部装甲からは二本の鋭利な角がせり出ている。
手足には蹄を装着し、濃緑色の脚部に刻まれた蛇の目模様が威嚇するように波打っていた。
キメラの特危獣とでも言うべき怪物に、月岡はコートから取り出した予備の拳銃を向ける。
「……!」
しかし異形はそれに構わず、倒れたフォックスを掴んで投げ飛ばした。
フォックスは月岡のことなどすっかり忘れ、狩りの邪魔をした異形へと攻撃対象を切り替える。
目の前で繰り広げられる特危獣同士の闘争を、月岡は呆然と眺めるばかりだった。
キメラの特危獣はフォックスの力を遥かに凌駕し、パワーやスピードなどあらゆる側面において圧倒的な差を見せつける。
そして夜が明けた頃、戦いはようやく終焉を迎えた。
「ガ……」
キメラの拳によって脳髄ごと頭蓋を粉砕されたフォックスが、今度こそ絶命して地に伏せる。
昇る太陽と共に振り向いたキメラの姿を、月岡は呼吸さえ忘れて見つめていた。
「お前は、一体……」
月岡の質問に答えるように、力尽きたキメラが異形の姿を解く。
その正体は死装束に身を包んだ痩身の青年、日向昇だった。