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第41話 その後

 真夜中にね、ふと目が覚めたんです。外はまだ真っ暗だから、二時とか三時とかだと思うんですけど……とにかくまだ夜明け前です。たぶん二時ですね、二時。怖い話って、たいてい草木も眠る丑三つ時、なんて言うじゃないですか。

 時間を確かめようと思って携帯電話を取ろうとするんですけど、身体がぴくりとも動かないんです。指一本、動かせませんでした。手も足も、もちろん顔も動かせません。かろうじて動くのは眼球だけ。真っ暗闇の中をなんとか目玉を動かして、今自分がどうなっているのか、どういう状況なのか確かめました。

 だんだんと暗闇に目が慣れてきて、目の前に黒いもやのような影があるのに気づきました。ちょうど私のお腹の上あたり、掛布団の上に何かが乗っかっているんです。形はそうですね、ボーリングのピンみたいな感じ。小さな頭の部分の下に瓶みたいな形をした身体がついている、そんな感じです。それがお腹の上に乗っているんです。ぞっとしました。

 私は必死で身体を動かそうとしました。でも、だめ。全然動かないんです。金縛りってやつですよね。和尚様は金縛りにあったことはあります? お坊さんだから、あるか。当然ですよね、ごめんなさい、私ったら馬鹿なこと聞いちゃって。……ええと、どこまで話しましたっけ? あ、そうそう、お腹の上の黒い影。とにかく影が早く消えてくれって心の中で祈りました。南無阿弥陀仏~南無阿弥陀仏~って一生懸命に唱えましたよ。でも消えないの。何度も何度も唱えても全然消えない。それどころか影が濃くはっきりとしてきて、なんとなく、人が正座している姿に見えてきたんです。

 ……そうです、姑です! ずっと前に亡くなった姑に見えるんです! 姑が私の上に乗っかって、動けなくしているんです。きっと私がずっとお墓参りをしていなかったから怒っているんですよ。もう私、怖くって怖くって! 何度もごめんなさいって謝って、すぐにお墓参りに行きますから許してくださいって謝りました。

 次の瞬間、もう朝でした……。カーテンから光が漏れていて、眩しくって目が覚めいちゃいました。毎年この時期になると、遮光カーテンに買い替えようって思うんですけど、いつも忘れてしまうんですよねぇ。忘れるってことは、実はそんなに不便に感じてないってことかしら? どう思います? 和尚様の部屋は遮光? ……あ、そうそう朝になってましてね。でも! お腹の上に相変わらずずっしりとした重みを感じるんです。私は恐る恐る頭を起こしてお腹の上を見ました。そうしたら、


「……はい」

「うちの猫でした。きなこちゃん」

「……」

「一晩中、お腹の上にいたのかしら。でも私、たしかに見たんですよね、姑の陰を。絶対にあれは金縛りでしたし。こんなこと、言いたくはないんですけど。ほら私、姑とはあんまりうまくいってなかったじゃないですか? 溺愛していた一人息子を、ほら、奪っちゃったようなものでしょ? だから逆恨みされてても不思議ではないんですよ。あ、もしかしたら! きなこちゃんが苦しむ私を見て姑を追い払ってくれたのかしら! 賢い猫だから! ね、きっとそうよね。和尚様、どう思います?」

「――お墓参りは五時までにお済ませください。あと、食べ物のお供えは必ずお持ち帰りください」

「わかっております。梅花堂ばいかどうの柏餅を買ってきたんですよ。主人が大好物なもので。あ、もちろん! お墓にお供えしてから持ち帰るつもりですけど」

「――そうしてください」

 崇文が深々と頭を下げると、本堂の軒先にどっしりと腰を据えていたご婦人がようやく立ち上がった。誰に向けてか、「膝を傷めているから、いくら近いって言ってもお墓参りは一苦労なの」と言い訳し、大仕事にでも向かうような風情で裏の墓地へと向かってゆく。

(ゆうに三十分は一人で喋ってたよな……)

 長栄寺から徒歩十分の場所に住む、前沢まえさわというご婦人だ。

 父は、前沢が山門に現れた途端、後は頼むと言い残して本堂の奥に引っ込んでしまった。一度口を開いたらしばらくはお喋りが止まないご婦人で有名なのだ。

 やれやれ、と崇文も立ち上がる。同じ姿勢で話を聞き続けていたのですっかり肩が凝ってしまった。腕を付け根から回して肩の筋肉をほぐしていると、背後から「すみません」と、遠慮がちな声に呼び止められた。

 振り返ると、詰襟の制服を着た中学生が立っていた。

「……こんにちは。学校は?」

 今日は平日、時刻は午後一時過ぎ。授業が終わる時間にしては早すぎる。

「明日から試験が始まるので、今日は午前中だけなんです」

「そうですか」

 学校帰りに寺によるとは、いったい何事だろう。用件を尋ねると、少年はおずおずと手に持っているものを差し出してきた。

「あの、これ」

 タオルでぐるぐる巻きにした、全長五十センチほどの物体だ。それこそボーリングのピンのような形をしている。

「あの、これ。……この人形、ここのお寺で処分してもらえませんか?」

「――――人形?」

 崇文が訝しんで訊き返すと、少年は火が着いたように喋り出した。

「妹の! 妹のお人形なんですけど、たぶん呪われた人形だと思うんです! 見てください、これ……!」

 少年は巻かれていたタオルを乱暴に引きはがした。

「ほら! 髪が伸びてる! 見て、ここ。ここです」

 タオルから出てきたのは、赤いちりめんの着物を着た日本人形だった。少年は切りそろえられた前髪の一部を指さしている。

「……」

 よく見ろと何度も指さされるが、崇文の目には、どこがどう伸びているのか、皆目見当もつかなかった。

「……ごめん。よくわからない」

「ここんとこ! 周りの毛よりも、ほんの少し飛び出しているじゃないですか! ……じゃあ、じゃあ! 夜になると、この人形が水を飲むんです!」

「水を飲む? 人形が?」

「妹がお水を入れたコップを人形の前に置いて寝たら、朝、少し減ってたって言うんです!」

 夜の間に蒸発したんだろうね、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。

「お願いです、ここで処分してください。呪われた人形だと思うんです」

 少年は、必死な様子で崇文の手に人形を押し付けてくる。

「ちょっ、うちでは人形供養は、」

「お願いです! 妹の身になにかあったら俺……!」

 少年は鎮痛な表情で顔を俯けた。仲の良い兄妹なのだろう。自身がまだ年端もいかない少年だと言うのに、妹の身を案じてなんとかしようとここまで来たのだ。その行動力を思うと無下に断れなくなった。

「お水をあげていたってことは、妹さんは、この人形を大切にしていたんじゃないの? 勝手に処分しちゃって大丈夫なのかな?」

「いいです。家に置いておいたら、妹になにか悪さをするかもしれません」

「――じゃあ、お寺で預かっておきます」

 崇文が人形を受け取ると、少年が弾かれたように顔を上げた。

「もしも妹さんが人形を取り戻したいって言ったら取りに来て」

「……わかりました。よろしくお願いします」

 少年はほっとした様子で小さく頷いた。本気で人形が妹に危害を加えるかもしれないと心配していたのだろう。帰ってゆく後ろ姿は、肩から重荷を下ろしたように足取りが軽やかだった。


(妹か)

 少年の後ろ姿を見て、ふた月前の仙台旅行を思い出した。

 今まで触れずに避け続けてきた司にかかる「呪い」の核心に迫り、松永家の秘密に触れた旅。謎はいくつも残したままだが、一族の恥部と隠されていた松永静の存在を知ったことは大きかった。

 誰からも忘れ去られ、生きていた事実さえ消えかかっていた静――。

 生前も死後も、静を想って祈る人間は、おそらく少なかったのではないだろうか。彼女の人生に思いを馳せ、司と一緒に静の冥福を祈ったことは、きっと無駄ではなかった。驕った考えになってしまうが、彼女の魂を解放することができたのだと信じている。

 司と出かけた最後の旅行になった。

 あれから司は戻ってきていない。

 早く帰ってきてほしいと願ってはいるが、安易に司に連絡を取ることができなかった。

 松永家に縛られていた静の生涯を思うと、これまで自らの意思で生きて来られなかった司の姿が重なり、連絡しようとする指先を止めるのだ。

 やっと司は「お前は呪われた子」という呪いから解放された。

 きっと今頃、失われた時間を取り戻すように自由に過ごしている。


(まだ仙台にいるのか? それともどこか他の土地に移動した?)

 元気でさえいてくれれば、それでいい――――とは、なかなか思えなかった。司の自由を願いつつ、約束を違えられたと、わずかに恨めしい気持ちがいつも胸を掠める。仙台駅で別れた時、観光したら帰ると約束したじゃないか。


「帰ったか? 前沢さん」

 頃合いを見計らって父が出てきた。前沢は、とうに墓参りを終え、すでに長栄寺を去っていた。

「帰ったよ」

「あの人、喋り出すと長いんだ。三時までに終わらせたい事務処理があったからお前に託しちゃった」

「父さん、逃げたなって思ったよ。ひでえな」

 横目で父を見ると悪びれもせず笑っている。

「お前のおかげで終わったよ」

 スマホを取り出して時間を見ると、午後二時にさしかかるところだった。三時までには、まだ一時間もある。前沢のおしゃべりにつき合ったとしても、余裕で仕事を終えられたのでは、と疑わしい気持ちになる。

 時間を見るついでに、目が勝手にメッセージの受信を確かめしまう。ここ二か月ですっかり身についてしまった癖だ。

「――そんなに心配しなくても、所持金の範囲で、今までできなかった旅行を楽しんでいるんだろう。お金が尽きたら戻ってくるさ」

 こちらを見ないまま、父が独り言のように呟いた。

「気になるなら連絡してみればいいじゃないか」

「できないよ」

 崇文はスマホを戻しながら小さく息を吐いた。

「司の邪魔はできない。もう女のふりをしなくてよくなったんだ。本来の男の姿になって、きっと今頃どこかで楽しくやってるよ。家を借りたりして……ここにはもう、戻って来る気はないのかもしれない」

「そんなことないさ。司のアパートだって、そのままにしてあるんだから」

「誰かと一緒に住んでいるかもしれない。司は美形だから、年上の女性に気に入られたりして……、そのひとの家で一緒に暮らしているかもしれない」

「なんだ。羨ましいのか? お前もけっこう顔立ちは悪くないと思うよ」

 俺の子だからな、と満足気に頷いている父は無視した。

「モデルや芸能人にスカウトされたりしてるかもしれない。そのうち、テレビや動画で司の姿を見ることになるかも……。熱心なファンがいっぱいできるんだろうな。ファンだったらいいけど、ストーカーに付きまとわれたりしないよな……?」

 本庄恵のような女性に狙われでもしたら……。

「ちょっと崇文。落ち着きなさいよ。ほんとにお前は、司のこととなると考えが先走るんだから……」

 父の嘆きは、半分ほどしか耳に入ってこなかった。

「司は賢いから大丈夫だと思うけど、変な女に騙されたりしないよな?」

「大丈夫だから。崇文、ちょっと落ち着きなさいって」

「ファンに成りすましたストーカー女に強引に迫られたりしてたら……。丸め込まれて結婚なんてことになったら、もう二度とここには、」

 父の声が完全に聞こえなくなり妄想で頭がいっぱいになった頃、山門から声が聞こえてきた。


「結婚? なんの話?」

 男性にしては軽やかな、よく通る声。「結婚すんの、崇文」

 崇文は素早く声のした方を振り返った。

 山門を背に、すらりと細身の青年が立っていた。Tシャツの襟から、白い喉元が覗いている。手には、季節外れのベージュのダウンジャケットを持っていた。


「ただいま」

 襟足をすっきりと短くした司が立っていた。

 帰ってきた。自由を奪われていたこの家に。「ただいま」と言って戻ってきてくれた。

 声が出ない。山門に向かって駆け出す。

「やあ司。お帰り」

 背後で、司を迎える父親の穏やかな声がしている。



幾星霜の呪いの子 ~下町駆け込み寺の怪異譚~ (了)


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