次に松永味噌を訪れた時には、奥の邸宅へは向かわず、直接、白漆喰壁の味噌蔵へと足を向けた。
「
蔵から出てきた初老の従業員に声をかけた。従業員は弾かれたように顔を上げ、訝しげに久子の顔を見た。そっけない声で「――向こうの蔵さいる」と答える。
久子は小さく頭を下げ、奥の蔵へと向かった。
蔵から出てきた丁稚奉公を捕まえ、良吾の居場所を尋ねると、蔵の奥を指差された。
奥の大桶に足をかけ、良吾が中身をかき混ぜていた。遠目にも、腕の筋肉が隆起しているのがわかる。二人組で作業しているようだが、一緒にいる同僚が頼りなく見えてしまうほど、良吾の体躯が逞しい。久子は、味噌の匂いが着物につくのも忘れ、何分もそこに佇んでいた。
「久子ちゃん! 来てたんだ」
やがて良吾が梯子を降りてきた。戸口に佇む久子に気づき、額の汗を拭いながら近づいてくる。共に作業をしていた年配の従業員が、揶揄うように良吾の肩を小突いた。
「奥様のところに行っていたの?」
「……ええ」
本当は、まだ静を訪ねてはいなかった。――訪ねるつもりもなかった。
行っても会わせてもらえないだろう、また門前払いを食らうのは嫌だし、静も本当に臥せっているのかもしれない……、と胸中で言い訳をする。
「今日は良吾くんにもお土産があるの」
はい、と藤沢百貨店で買った押し寿司を手渡すと、良吾は束の間動きを止め、ちょっとこっちへ、と久子の腕を引いた。
蔵の裏手の、他人目のないところに連れて来られた。
「久子ちゃん、気持ちは嬉しいけど、俺への土産は持って来なくていいから」
「どうして?」
作業をすれば腹が減るだろう。良吾はまだ結婚していないはずだ。独り身では、どんな食事をしているのかわからない。
「……子供衆が欲しがったら困る」
「あら。じゃあ、今度はもっとたくさん買ってくるわ」
「いや、そうじゃないんだ。その、周りの目もあるし」
良吾が言いにくそうに語尾を濁す。
そうか、良吾は照れているのだ、と久子は得心した。さっきも年配の従業員に肩を小突かれていた。
久子は「わかった」と頷き、土産はこれきりにすると約束した。これきりにするから、最後の土産は受け取って欲しいと、良吾の手に押し寿司を押し付ける。
それから、良吾の精悍な横顔をじっと見つめた。
良吾の法被から、味噌と汗の混じった塩気の強い香りがした。不快だとは思わなかった。むしろ爽やかで、働く男とは、こういう人を言うのだと悟った。
良吾と結婚していたら、どんなだっただろうと思いを馳せる。
良吾が、
夫は、久子より五つも歳が上だが、良吾とはたったの二つ違いだ。今のように、夫婦の会話が途切れて困ることもなかっただろう。
しかし、現実は、良吾は味噌屋の手代になったばかりだ。呉服屋の主人ではない。もしも今、良吾と一緒になったら、粗末な家で貧乏暮らしを送ることになる。――どうしてこう、人生は思うように行かないのだろう。
「良吾ー! どこだー!」
蔵のほうから、良吾を呼ぶ声がする。
「ごめん、久子ちゃん。もう行かなくちゃ」
良吾が、手ぬぐいを額に巻き直した。仕事中に訪ねてしまったことを詫び、久子も門へと踵を返した。
「また、奥様に顔を見せに来てあげて。奥様、この前も久子ちゃんが訪ねて来た、と伝えたら、『会いたかった』とすごく残念がっていた」
振り返ると、良吾が輝く笑顔を見せていた。そこに静がいるわけでもないのに、照れ臭そうに人差し指で鼻の下を擦っている。
「久子ちゃんの話をすると、奥様の顔色がいいんだ。やっぱり、旧友に会いたいんだろうな」
久子は返事をせずに門へと向かった。
訊いてもいないのに、また静の話をする。
良吾は静のこととなると、少々しつこくて困る。
「どこに行くんだ」
夫・正孝に呼び止められ、久子は億劫な気持ちで振り返った。
正孝が、上り框に立っていた。腕を組み、威圧するようにこちらを見下ろしている。今日は仕事が休みのようだ。
「昨日話しましたでしょう? 松島です。旧友が、体調を崩しているのでお見舞いです」
昨日話したかどうか、久子自身も覚えていなかった。だが堂々と主張すれば問題ない。常から夫は久子の話を半分も聞いておらず、四分の一も内容を覚えていない。「前に話した」と言い張れば、大抵押し通せた。
「ここのところ、三日にいっぺんは松島に行っているそうじゃないか。そう何度も行って、何の意味がある。お前が行かなくとも、家の人間がなんとかするだろう」
「また始まった」と、久子はこっそりと溜息を吐いた。この人は、家族の行動を自分の思い通りにしないと気が済まないのだ。
妻とは、お使いをして欲しい時にはすぐさま対応し、それ以外は家にいて然るべきと考えているのだ。妻をいったい何だと思っているのだろう。
「雪江の子守りだって、初に任せっきりだそうじゃないか。雪江もまだ小さいんだ。もう少しそばにいてやりなさい」
では、貴方がそばにいてやればいいではないですか。私は毎日、子供たちの世話をしています――。できることなら、言ってやりたい。顔を上げて夫の顔を見据える。
優しげな顔、と言えば聞こえは良いが、締まりのない瓜実顔。薄情そうな薄い唇。夫の顔に、久子の好きな要素が一つもなかった。どうしてこんな相手と結婚したのだろう……束の間、虚脱感に襲われる。
「――今日で最後にしますから。お願い。旧友が、嫁ぎ先で心細くなって私に会いたがっているんです。可哀想でしょう?」
再度、可哀想と目を伏せると、夫が気まずそうに咳払いをした。
「……夕刻までには戻りなさい」
「わかりました。行って参ります」
夫の気が変わらないうちに素早く玄関を出る。裾を捌いて、絹の音をさせながら颯爽と歩いた。
初が、夫に告げ口をしたのだろうか? それとも義母か。たまに出かけるくらい、何がいけないのだろう。みんなで自分を邪魔するつもりかと、久子は心中で毒づいた。
松永味噌に通うのは、今日で四度目だ。松島駅からの道のりもすっかり慣れた。
今日も松永家の敷地の竹垣には、静を一目見ようと子供や老爺がへばりついていた。馬鹿な子ら、とひっそりと思う。親友の自分が訪ねても出て来やしないのだから、待っていたって無駄なのに。
門をくぐると、迷わず二棟目の味噌蔵へと足を向けた。材料を運んでいる従業員を捕まえ、良吾を呼んできて欲しいと託ける。
しばらくして、良吾が出てきた。心なしか、元気がないようだった。
「どうしたの? お仕事、忙しいの?」
「――いや」
「どうしたのよ」
今日は久子が良吾の袖を引き、蔵の裏手の他人気のない場所まで連れて行った。
「何かあったの?」
辛抱強く良吾の返事を待っていると、良吾が重い口を開いた。
「――見合いの話を、いただいたんだ」
「まあ!」
かすかに胸が痛んだが、すぐにその痛みは消えた。痛い、と思う間もないくらい、一瞬の間だった。
「良かったじゃない! ……それなのに、どうして浮かない顔をしているの? 嬉しくないの?」
良吾は返事をせず、ただ辛そうに俯いた。
「――ありがたいと思う。丁稚奉公上がりの俺に、縁談まで世話してくれるなんて、本当に……。けど、俺、俺、」
「好きな人が」と、蚊の鳴くような声で呟く。
久子には、誰のことか、嫌というほどわかっていた。良吾は、初めから終わりまで、一人の女性しか見ていなかった。哀れだなあと思う。自分の雇い主の妻に恋焦がれるなんて、哀れ以外の何でもない。
肩を落とす良吾を見ていると、どうしてこんな男に胸を躍らせていたのだろうと、急に気持ちが冷えた。
そんな情けない姿を晒さないで欲しい。恰好の良い、幼馴染のお兄さんに戻って欲しい。けれど良吾は、いつまでもうじうじと顔を上げようとしなかった。
どうして皆、目の前の幸せに目を向けず、届きもしない理想や夢に手を伸ばそうとするのだろう。ひどく幼稚で情けない。
ふと、面白いことを思いついた。
「そういえば静ちゃん、今日、良吾くんのことをとても褒めていたわ」
「――え?」
良吾が、弾かれたように顔を上げる。
「『頼り甲斐のある男性だ』って。『優しい』って。ほら、静ちゃんのご主人は一回り以上も年上でしょう? 年齢の近い良吾くんだと、心を許せて何でも話しやすいみたい」
「奥様が……?」
良吾の瞳に光が宿る。目に見えて、良吾の顔に血色が戻った。
「ええ。良吾くんに会えるのが、嬉しいみたいよ。ほら、ご主人って、なんだか怖そうだし、年が離れ過ぎていて、話すこともないようなの。年の近い良吾くんと話せて、楽しかったのよ。――私たちって、一度は想像するのよ。心から好いた相手と結婚していたらなって。本当に好きな人とだったら、どんな困難も乗り越えて行けるんじゃないかなって。私たちは、親や周囲に結婚相手を決められてしまうから……。静ちゃんもそうよ。私たちが女学校に通っているうちから、正太郎さんに見初められて。きっと静ちゃんもそんなに早く嫁ぐなんて嫌だったと思うわ」
「……」
「しかも、ずうっと年上の、父親のような風貌の方でしょう、正太郎さんって。静ちゃんだって、自分と年の近い、素敵な男性との結婚を夢見ていたと思うわ」
ちら、と良吾の顔を確かめる。
「――良吾くんみたいな、素敵な男性と」
言い終わらないうちに、良吾に両肩を掴まれた。額を突き合わせるようにして、問われる。
「それ、本当!? 本当に奥様がそう言っていたの?」
「――ふふ」
久子は、はい、ともいいえとも明言せず、ただ悠然と微笑んだ。
手を取り合って逃避行する良吾と静を想像する。
当然、すぐに見つかり連れ戻されるだろう。ひどく叱られ、しばらく二人は顔を合わせないよう遠ざけられるに違いない。大人になっても叱りつけられる二人の姿を想像すると、可笑しくて笑いが込み上げてきた。まったく、
万が一、逃避行がうまくいったら――? 逃げながら、満足な生活が送れるわけがない。貧乏な上、周囲の目から隠れ続け、心労が募るばかりだ。
どちらにしても、面白い展開になりそうだった。
「――この前から言おうと思っていたの。静ちゃんこそ、良吾くんとお話すると顔色がいいのよ。良吾くんの話をする時は、目が輝いているもの」
良吾の頬に赤みが差す。じわじわと広がり、耳まで血色が広がっていった。
「久子ちゃん」
両肩に添えられていた手が、腕を伝って降りてきた。両手を、強く握られる。再会して初めて、手に触れられた。互いに瞳が覗けるくらい、顔が近づいている。――けれど、もう胸が高鳴ることはなかった。
「教えてくれて、ありがとう。俺、ずっとずっと奥様のことが――」
「――ええ」
良吾の告白が耳を素通りしてゆく。どうでも良かった。良吾には、もう飽きた。
ただ、二人が逃避行する姿を想像すると、わずかに楽しい気分になった。
成功しようが、失敗しようが、胸のすく思いがした。