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第38話 幕間 泡沫の夢

 二度目に静を訪ねた時は、懸念していた通り、門前払いを食らった。

「奥様は体調を崩し、奥で休んでおられます」

 狐目の女中に告げられ、久子は土間にすら入れてもらえたかった。

 久子は、手土産に持ってきた洋菓子を女中に預け、門までの道のりを引き返した。


 さして驚きもしなかった。気落ちもしていない。どこかで、こうなる気がしていた。

 前回、正太郎に「訪問する前に連絡しろ」と告げられ、訪問が歓迎されていないのには、薄々気付いていた。

 今日は手持ちの中で一番上等な訪問着を着てきたのだが、静にそれを見てもらえなかったのだけが残念だった。


 美しい庭を鑑賞しながら歩いていると、若い男の張りのある声が響いた。

「こら!」

 通りからの目隠しに立てられた竹垣に向かって、青年が声を張り上げている。

「竹垣に寄りかからないでくれ。ほら、帰った、帰った!」

 松永味噌の従業員だろう。先日見た、角刈りの男と同じ色の法被を着ている。捲り上げた袖から覗く、よく日に灼けた腕が逞しい。

 外の通りから敷地内を覗き込む子供たちを追い払っているようだ。

「お姫様はー?」

「お姫様なんか、いねえ! ほら、帰った帰った!」

 青年が手にしていた竹箒を振り上げると、少年たちはしゃいだ悲鳴をあげ、バタバタと通りを走り去って行った。

 その様子を眺めていると、視線に気付き、青年が振り返った。

「おっと、お騒がせしてすみません。どうぞ……」

 久子の顔を見て、青年が動きを止める。

「――久子ちゃん?」

 名を呼ばれ、久子も青年の顔を確かめた。額に巻いた汗止めの手ぬぐいから覗く精悍な目元に、見覚えがあった。通った鼻筋と、厚めの唇。幼い頃、よく一緒に遊んだ、三軒隣に住む幼馴染だ。

良吾りょうごくん?」

「何年ぶりだろう! 綺麗になったなぁ、久子ちゃん!」

 とっておきの着物を着てきて良かったと、久子は気分が高揚した。



「松永味噌で働いていたのね」

 精悍な顔を見上げると、良吾が嬉しそうに顔を綻ばせた。

「もう十年になるかな」

 昔は、よく良吾を追いかけ回していた。だが、年頃になると良吾に煩がられるようになり、また、自分も女学生になり、すっかり顔を合わせなくなっていた。近所に住んでいたはずなのに、いつの間にか互いに疎遠になっていた。

丁稚奉公でっちぼうこうから、ようやくこの前、手代てだいにしてもらえたんだ」

「まあ、おめでとう」

 松永家の敷地内の、大きな庭石に並んで腰掛けていた。近くには石灯籠がある。

 腰掛けていい場所なのか躊躇っていると、良吾が庭石に新しい手ぬぐいを敷いてくれた。着物が汚れるのを嫌がっていると勘違いしたのかもしれない。紳士的な気遣いに、きゅっと胸が締め付けられる。久子は迷っていたのも忘れ、勇んで良吾の隣に腰掛けた。

 松の木々が、正午の日差しと松永家からの視線を遮ってくれた。

「良吾くん、すっかり大人になったのね。すぐには、わからなかった」

 良吾は見違えるほど大人になっていた。身長は、久子より頭一つ分も大きい。腕や脚がとても逞しく、よく日に灼けていた。夫の正孝(まさたか)より、随分と逞しい、と久子は思った。

「久子ちゃんこそ。綺麗な着物だね。いいところにお嫁に行ったんだ」

「呉服屋さん。そんな、たいしたことないの」

「お子さんは?」

「三歳の息子と、一歳になったばかりの娘が一人」

「久子ちゃんも、立派なお母さんだ」

 褒められているのに、なんだか嬉しくない。近況を話すたびに久子はだんだんと気分が沈んでいった。どうしてなのか、自分でもわからなかった。

 気分を変えようと、久子は話題を変えた。

「……さっきは、いったい何をしてたの? お姫様って?」

 ああ、と良吾が相好を崩した。

「近所のガキどもが、奥様を一目見たいと覗きに来るんだ」

「――静ちゃんを?」

 思わず慣れた呼び方で呼ぶと、良吾が驚いたように目を見開いた。

「久子ちゃん、奥様を知っているの?」

「ええ、女学校で同級生だったもの」

 久子は、静と女学校で同級生であったこと、今日は静を訪ねてきたことを簡潔に話した。

「そうだったのか。わざわざ来てくれたのに、会えなくて残念だったね」

 まるで身内の非礼を詫びるように、良吾が頭を下げる。

「……お姫様って呼ばれているの?」

「近所のガキどもがね。この前、珍しく社長が正装した奥様を連れて出てね、近所の連中がその姿を見かけたらしいんだ。それから、綺麗だ、綺麗だって騒ぎ出して……。それからは暇さえあればうちを覗きに来てる」

「――そう」

 落ち着かない気分になり、久子は頬にかかる髪の毛を耳にかけた。

 唐突に、昔のように、髪が長ければ、と思った。肩に降ろした豊かな毛束を撫でていれば、ツルツルと手触りのよい編み目に触れていられれば、もう少し落ち着いていられたのに。こめかみの短い毛先に触れるだけでは、どうにも気分が落ち着かない。どうして髪を切ってしまったのだろう。こんな、色気の欠片も無い、短い髪に。

 ――静の、片側に垂らされた豊かな髪を思い出す。

「騒ぐのも無理はない。奥様は美しいから」

「――静ちゃんは、昔から美人だと評判だったの」

「……」

 良吾からの返事がなく、久子はそっと隣を窺った。良吾は、わずかに背を伸ばし、屋敷の主屋のほうを眺めていた。うっとりと目を細めている。どこかで見たことのある目だ、と思った。

 ――静を見る、山辺先生の目だ。

 良吾は「美しい」と言った。

 久子に対しては一言も言わなかった「美しい」という単語を、静には躊躇なく言った。

 久子の胸中には、モクモクと暗雲が立ち込める。

 子を産んでもなお、着物を着付け、長い髪を維持し続けられる静。出産のために蓄えた脂肪を難なく落とした静。子が泣いても、焦らず人任せにできる静。

 静はいつもそうだ。黙っていても、周囲が手を差し伸べてくれる。

 久子が欲しいものを難なく手に入れる。

 久子はふらふらと岩から立ち上がった。これ以上、幼馴染の口から出る、静への賛辞を聞くのが堪え難かった。

「久子ちゃんが来たってこと、奥様に伝えておくよ」

 良吾が朗らかに声をかけてくる。だが久子は、振り返らずにその場を去った。

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