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第37話 幕間 泡沫の夢

 何もかも夢のように楽しかった女学校の卒業から七年が経ち、久子は二十二歳を越えていた。

 卒業から一年ほどした頃、久子の下にも、縁談が舞い込んできた。

 隣町の呉服屋だった。もちろん、裕福な家だ。両親も久子自身も、ほっと胸を撫で下ろした。

 すぐに結婚。結婚から一年半ほどして、長男が生まれた。二年後には、待望の長女も生まれた。

 順風満帆な生活だった。――新婚二年目くらいまでは。

 呉服屋なだけに、毎日、綺麗な着物を選び放題だと思っていたのも束の間、子育ては想像していた以上に過酷だった。いくら綺麗な着物があっても、毎日毎日、吐瀉物や食べ物で汚される。次第に着物に興味がなくなり、動きやすいワンピースを着る日が増えた。髪は少々乱れていても目立たない、パーマを当てたショートカットにした。


はつ! どこなの、初!」

 一歳になったばかりの娘・雪江ゆきえ、縁側で一人遊びをしているのを見つけ、久子は肝を冷やした。素早く抱き上げ、子守りを頼んでいた女中を大声で呼ぶ。

「初!」

「はぁい、奥様」

 遠くから、女中の間延びした返事がする。何度も呼んでいるのに、すぐに駆けつけてくる気配はない。

 春から屋敷にやってきた初は、気立ては良いが、いささかのんびりし過ぎている。何事も腰を上げるのが遅く、咄嗟の出来事に対応するのが大の苦手だ。先日も、這いずる雪江から目を離し、土間に落としたばかりだ。

 のっそりと現れた初に、久子は溜息を飲み込んだ。

「――雪江をちゃんと見ていてちょうだい。目を離してはだめよ。この前のように、どこかに落ちて怪我をしたらどうするの」

「すみません」

「それから……」

 目下、久子の悩みは、姑が幼い子供たちに、塩気の強い漬け物を与えてしまうことだった。何度やめてほしいとお願いしても、子供たちが喜んで食べるのだと、聞く耳を持たない。穏やかな人だと評される義母だが、なぜか久子の話にだけは耳を貸さなかった。二人きりになると、話しかけても返事をしなくなることさえあった。――高齢で、既に耳が遠くなっているのかもしれない。

「お義母様が雪江たちに漬け物を与えようとしても、絶対に止めてね。子供たちには、まだ塩気が強過ぎるんだから」

「でもぉ……。あたしがダメだって言っても、大奥様は聞く耳を持ちません」

「なんとかなさい! お義母様が漬け物を持ってきたら、貴女が食べてしまえばいいでしょう、全部」

「あ、そうですね」

 それは妙案だと言わんばかりに、初が顔を輝かせる。初は、何よりも食べることが好きな、ふくよかな女の子だ。

秀一しゅういちは庭で遊んでいますから。二人をお願い」

「どちらへ?」

「御用達に行ってまいります。帰りは夕方になります」

 雪江を渡すと、初は慣れた手つきで抱き取った。雪江を抱いた一瞬の後には、すでに気もそぞろで、風に乗って漂う出汁の匂いに鼻をひくつかせている。昼食の献立に思いを馳せているのだろう。

 しかし雪江は、肉付きの良い初の腕に抱かれ、気持ちよさそうに目を細めている。献身的な愛情を持って接しても、小太りな女中の腕のほうが好きなのだから、子育ては本当に遣り甲斐がない。ほとほと嫌になってしまう。

「――お願いね」

 帽子を直し、久子は玄関を出た。風は冷たいが陽射しが温かく、久方ぶりの一人の外出に胸が躍った。



 夫に頼まれたお使いを済ますと、お茶でも飲もうかと、藤沢百貨店ふじさわひゃっかてんへと向かった。

 三階のフロアの奥にある、ブティックの狭間にある小さな喫茶室が久子のお気に入りだった。最上階の食堂や、路面に面した一階の喫茶室と違って、表立って看板を出していないため、いつも客が少なく静かで居心地が良い。客層はブティックに来るお洒落な婦人が多く、目の保養にもなる。ここでお茶を飲んでいると、自分もモダンな婦人の一員になれたのだと、ひそかに嬉しくなった。

 百貨店に来るのも久しぶりだ。

 やはり、たまには息抜きをしないといけないと、久子は一人頷く。家の仕事も、子育ても、母なる自分の健康があってこそだ。

 藤沢百貨店に足を踏み入れると、微かに醤油の匂いが鼻をついた。

 地下で売られている総菜のせいだ。藤沢百貨店は、フロアの中央が地下から八階まで吹き抜けになっており、地階で売られる食品の匂いが上階にも昇ってくるのだ。

 一階では、ハンカチや洋傘、手袋などの素敵な品々が売られている。高級感のある内装で非日常を演出しているのに、地階から上がって来る食材の匂いのせいで、雰囲気を損ねている。久しぶりに藤沢に足を踏み入れ、そのことを思い出した。

(どうにかならないのかしら。せっかく素敵な雰囲気なのに)

 もちろん、醤油の香ばしい匂いや、出汁や漬物の郷愁を誘う香りは、久子も好きなのだが、シャンデリアの輝く百貨店の雰囲気にはそぐわない。


 鼻をつく麹の香りで、ふと、静を思い出した。

 味噌づくりの大豪商に嫁いだ親友。結婚式の時以来、会っていない。

(元気にしているかしら)

 静とは年に一度、年賀状を交わすだけの仲になっていた。お互いに忙しく、また、住んでいるところも離れてしまったため、顔を合わせる機会がなかった。

 しかし子育てがひと段落した今、久しぶりに静に会いたくなった。

 久子は、地下で羊羹を一竿を買うと、喫茶室には行かず、仙台駅に向かった。

 仙石線に乗り、松島駅で降りる。松島駅前に停まっているハイヤーを捕まえ、行き先を告げた。

「菖蒲地区の松永味噌醸造まで、お願いします」

 ハイヤーは滑らかに走り出した。

 急な予定変更と、夫を伴わない遠出に、胸が早鐘を打っていた。街に買い物に出るか、夫に頼まれた用事をする以外は、一人で他所を出歩く機会など、滅多になかった。

(学友に会いに行くことぐらい、許されるわ)

 久子は、窓ガラスに映る自身の顔を確かめ、帽子の角度を直した。結局お茶をしなかったので、口紅も剥げていない。お持たせにした羊羹は、老舗の高級品だし、急遽決めた訪問だが、おかしなところはないだろう。


 静に会うのは久しぶりだ。静の結婚式では、松永味噌の取引先や重要な来賓に阻まれ、静に近づくこともままならなかった。遠くの末席から、高砂に座る静の米粒ほどの顔を拝んだだけだった。

 着物を着てくれば良かった。せっかく大きな呉服屋に嫁いだのに、動きやすいからとワンピースを着てきてしまった。呉服屋の妻として立派にやっているとわかりやすく示すには、上等な着物を身に着けて見せるのが一番だったのに。

(急に決めたから、仕方がない)

 久子は気を取り直し、ハンドバッグに忍ばせていたブローチを胸につけた。

 運転手に到着を告げられ、久子は顔を上げた。


 目の前に、巨大な石造りの門が立っていた。右の石柱には「松永」と書かれた陶磁器の表札が埋め込まれている。

 車を降りると、ぷん、と味噌の匂いが鼻をついた。

 門を過ぎると、広大な敷地が広がっている。手前に白漆喰の蔵が二軒建っていて、奥の松の木々の隙間に、厳かな造りの建物がちらりと見えた。おそらく漆喰の蔵は、味噌づくりの建物だろう。より強く味噌の香りが漂っている。法被を着た従業員が、ひっきりなしに蔵を出入りしていた。

 松の木々の向こうに、平家建ての邸宅が見えてきた。おそらく、そちらが居住部分だ。久子は平屋建てに向かってゆっくりと歩き出した。

 邸宅へ向かう途中、大人三人で手を繋いでも囲いきれないような、太い幹の桜の木があった。枝ぶりが見事で、これが「松永の桜」だとすぐにわかった。花をつけたらさぞかし見事だろうと、桜の大木の横を過ぎる。


「ごめんください」

 磨き上げられたガラス戸の玄関の前で声をかけたが、反応がない。呼び鈴が見当たらず、久子は恐る恐る引き戸を開けた。

「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」

 目の前には広い土間が広がっていた。黒い御影石の土間で、すみからすみまで磨き上げられている。端の方には樽詰めの味噌が置かれていて、その保存のためか、土間は暗くひんやりとしている。

「へい!」と小気味よい返事が聞こえて来て、奥から、角刈りの男が走り出てきた。

 男は法被はっぴを身に着けており、首には、汗の滲んだ布巾を捩じって巻いていた。男の身体中から味噌の匂いが漂っている。やはり、想像した通りだ。いくら立派な大豪邸でも、味噌屋は味噌の匂いに溢れている。

「味噌でしょうか、醤油でしょうか」

 小売りの商品を買いにきた客だと勘違いされ、要望を訊かれる。

「こんにちは。こちらに、静さんはいらっしゃいますか? 私、静さんの学友の菅野久子と申します」

 久子は、あえて旧姓で名乗った。静のことだ、嫁ぎ先の姓で名乗ったら、友が訪ねてきたと気付かないかもしれない。

 静の名前を出すと、角刈りの男が途端に姿勢を低くした。久子と目線を合わせないよう顔を俯け「失礼しました」と早口で詫びた。

「少々お待ちください。呼んでまいります」

 男は急いで奥へと引っ込むと、女中を呼びつけ、静の居場所を尋ねた。

 この豪邸の中に、たしかに静がいる。鼓動が早くなってきた。

 まさかとは思うが、忘れられてはいないだろうか。門前払い、なんてことには、ならないだろうか――


「久子ちゃん……?」

 蚊の鳴くような声が聞こえてきて、久子は顔を上げた。

「!」

 ――危うく、悲鳴を上げかけた。

 目の前に、柳のような女が立っていた。きっちりと着込んだ着物の襟から覗く首が折れそうに細い。胸元を抑える手の甲は、血管が浮き出ている。――ふっくらとしていた頬はすっかり肉が削げ落ち、元々小さい顔がもう一回り細くなっていた。静は、だいぶ様変わりしていた。

 歩いてくる足音もせず、立っている姿はまるで幽霊だ。暗い色味の着物を着ており、首から上だけが闇に浮かんでいるように見えた。長い黒髪を片側にゆったりと結い、顔の半分が覆い隠されている。……だが、わずかに覗く美しい顔立ちは、たしかに静だ。

「……静ちゃん」

 もともと華奢ではあったが、今やもう、風に吹かれたら飛んでゆきそうだ。

 病気にでも罹っているのだろうか。そんな噂は聞いていないが……。あまり外に出ていないのか、肌は抜けるように白い。――いや、青白い。

「久子ちゃん、久しぶりね」

 声も何だか張りがない。けれど、喜びを滲ませているのは伝わってきた。

「この辺りに、用事でもあったの? 会いにきてくれるなんて、嬉しい」

「ええ、そう……。松島に用事があって、静ちゃんのお宅が近いと思い出して寄ってみたの。急に来てごめんなさい」

 これお土産、と羊羹を手渡す。受け取る手首が小枝のようで、羊羹の重さで折れてしまうのではないかと思った。痩せ細ってはいるが、指先は、学生の頃のように荒れてはいなかった。

「嬉しい」

 静が、息を吐くようにしみじみと呟いた。

 こんな豪邸に住んでいるのに、満足に甘味も食べさせてもらえないのだろうか。静がどんな暮らしをしているのか、まったく想像がつかなかった。

「静ちゃん……」

 呼びかけてはみたものの、何から訊ねてよいのかわからない。学生の頃と、あまりにも様変わりしていたし、痩せたせいもあって、まるで別人のように感じた。

 その時、どこかからか赤ん坊の泣き声がした。

「まあ。もしかして、お子さんが生まれたの?」

 結婚したのだから子供がいて不思議はないのだが、目の前の柳のような静から赤子が生まれ出たとは信じられず、思わず声を張り上げていた。

「ええ、そう。次男」

「おめでとう」

 あの泣き方はまだ一歳にも満たないだろう。それでは子守りに忙しい時期だと思い、久子は早々に辞去しようとした。

「急に来てごめんなさいね。そろそろお暇するわ」

「待って、久子ちゃん……」

 静に袖を引かれ、振り返った瞬間、奥から、ドスドスと重い足音が聞こえてきた。静が反射的に身を竦ませる。


 顎の逞しい、大柄な男が顔を出した。初めの角刈りの男と同じように法被を身に着けているが、色が違う。静の隣に並ぶと、やや乱暴に静の肩を抱いた。

「どなたかな?」

 静の夫の松永正太郎だ。以前見かけた時は、腹の出た中肉中背の男という印象だったが、華奢な静に並んだせいか、大木のような巨体に見えた。

「――静さんの学友の菅野と申します。もう、お暇するところでした」

「そうでしたか。では表まで送りましょう」

 正太郎は土間に降りると、雪駄を履いた。ガラス戸を開け、外に出るよう久子を促した。

「……はあ」

 久子は呆気に取られながら、正太郎に続いた。見送りならば、静が送ってくれればよいのに、と肩越しに振り返る。静は土間にぼんやりと立ち尽くしていた。土間から外には、決して出ようとしない。

 いつまでも見ていると、正太郎が背後に回り込んで来て視界を塞いだ。

「何のおもてなしもせず、すみません。次に来る時は、どうぞ事前にご連絡ください」

「――はあ」

 大袈裟なもてなしなど必要ないのに。ただ友人を訪ねてきただけだ。

 赤子の無き声がまだ聞こえているが、静は土間から動こうともしない。


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