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第36話 幕間 泡沫の夢

 静の縁談が決まったとの噂が流れてきたのは、卒業が目前に迫った冬だった。


 相手は、菖蒲地区しょうぶちくの名家・松永家まつながけの当主。松永家は、古くから味噌屋を営む商家で、二年ほど前からは、天皇家にも商品を収める大豪商だ。松永味噌の商品は、地元の商店から街の百貨店まで、至るところで目にする。

 菖蒲地区に、味噌作りの蔵と広大な屋敷を有しており、地元では「松永のお屋敷」と有名だ。敷地内には「松永の桜」と呼ばれる見事な桜の木があり、見頃になると、市長も花見に訪れるらしい。

 絵に描いたような、玉の輿だった。


「おめでとう、静ちゃん!」

 誰もが、静の快挙を喜んだ。実際に目にしてはいないが、静の両親などは、涙を流して喜んでいるに違いない。

「お父さんとお母さんも、喜んでいるでしょう?」

「……うん」

 皆が祝福する中、親友の顔は浮かない。


 三代目当主の松永正太郎は、久子たちよりも一回り以上も年上の、三十近い男だ。

 大豆の仕入れに農家を訪ね歩いた中で、静を見初めたらしい。

(――随分と年嵩の……オジサマだった)

 一度だけ見かけたが、四角い顔をした中年の男だった。豊かさを誇示しているのか、弛んだ腹を、恥ずかし気もなく突き出していた。

 あの中年男と結婚するのかと思うと、静が塞ぎこむのも仕方がない気がした。


 俯く静の、バランスの良い横顔のラインを見やる。

 相変わらず、飾り気のないひっつめ髪。

 松永家に嫁いだら、毎日、女中に髪を結ってもらうのだろうか。

 毎日日替わりで、上等な着物を着せてもらえるのだろうか。

 大勢の女中にかしずかれ、何不自由なく暮らすのだろうか。

 松永家では、春になると近隣の者を招いて、「松永の桜」の下で花見をするらしい。大きな屋敷に、広い庭。豪華な食事に、煌びやかな生活――。

(皆が憧れる、結婚生活……)

 ――それでも、相手は腹の出た中年男。

 それに、味噌屋。いくら屋敷が立派だろうと、日がな一日味噌臭い中で過ごすのは、自分だったら絶対に嫌だ。


 気づけば、静の縁談にケチをつけようとしていて、久子は慌てて卑屈な思いを打ち消した。

(いけない、静ちゃんのおめでたい話なのに)

 要するに、自分は静の結婚が羨ましいのだ。

 富豪と縁談が纏まったことが羨ましい。

 このところ、久子は少々焦っていた。

 同級生が二人も、在学中に嫁ぎ先を決めたからだ。

 学校を卒業したら、自分も本格的に婿探しに取り組まねばならない。のんびりしていたら、いくら容姿が優れていようとも、行き遅れるかもしれない。

「女学校卒業」という完璧な学歴もある。

 何も心配はいらない。何も心配はいらないはずだが――。

「静ちゃん、良かったね。菖蒲地区の松永と言えば、大金持ちよ! うちもお味噌は、松永味噌のものと決めているの」

「――うん」

 久子の葛藤など露知らず、静は相変わらず意気消沈している。気持ちはわかるが、恵まれている自覚がないのに、ほんの少しだけ腹が立った。静や静の両親が苦労して立ち回ることなく、相手方から見初められたというのに。焦る気持ちを堪えて、祝福しているこちらの気も知らずに。

「静ちゃん、だめよ。みんな、静ちゃんの結婚を心から祝っているんだから。笑顔でお礼を返さないと、失礼になるわ」

 静は、はっと我に返って顔を上げた。

「――そうね。ごめんなさい」

「おめでとう、静ちゃん。私、自分のことのように嬉しい」

「ありがとう」

 静は控えめな笑顔を見せ、それから少し恥ずかしそうに俯いた。

「……私ね、学校の先生になるのが夢だったの」

 初めて聞く静の夢に、久子はひどく驚いた。卒業してもなお、まだ勉強を続けたいとは物好きな。静らしいと言えば、静らしかった。

「そうだったの。初めて聞いた。――山辺先生のような?」

 静ははにかんだ笑顔を見せ、こくりと頷いた。

「どうしたら教師になれるのか、先生に何度か相談していたの」

 すっと血の気が引いた。

 久子の知らぬところで、静と山辺先生は密かに面談をしていたのか。学校ではずっと静と一緒に行動していたつもりだったのに、いつの間に。ただの進路の相談だ、と自身に言い聞かせても、冷えた指先になかなか体温が戻って来ない。

 朝、山辺先生に声を掛けられ、幾度も三人で登校した。一緒に歩けて嬉しかった。けれどあの時、山辺先生は、久子より静を、より気にかけていたのだろう。

「――先生は、なんて?」

「『勉強を続けなさい』って。私、松永の家に行っても、勉強を続けられるかしら……」

 静の声がなかなか頭に入ってこない。静の目を直視できず、久子は視線を外したまま、静の肩を撫でた。

「――きっと大丈夫よ。大丈夫」


 きっと、大丈夫。何もかもうまくゆく。今、親友の顔を見られないのは、自分に余裕がないだけだ。

 大丈夫。私もきっと幸せになれる。

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