静の縁談が決まったとの噂が流れてきたのは、卒業が目前に迫った冬だった。
相手は、
菖蒲地区に、味噌作りの蔵と広大な屋敷を有しており、地元では「松永のお屋敷」と有名だ。敷地内には「松永の桜」と呼ばれる見事な桜の木があり、見頃になると、市長も花見に訪れるらしい。
絵に描いたような、玉の輿だった。
「おめでとう、静ちゃん!」
誰もが、静の快挙を喜んだ。実際に目にしてはいないが、静の両親などは、涙を流して喜んでいるに違いない。
「お父さんとお母さんも、喜んでいるでしょう?」
「……うん」
皆が祝福する中、親友の顔は浮かない。
三代目当主の松永正太郎は、久子たちよりも一回り以上も年上の、三十近い男だ。
大豆の仕入れに農家を訪ね歩いた中で、静を見初めたらしい。
(――随分と年嵩の……オジサマだった)
一度だけ見かけたが、四角い顔をした中年の男だった。豊かさを誇示しているのか、弛んだ腹を、恥ずかし気もなく突き出していた。
あの中年男と結婚するのかと思うと、静が塞ぎこむのも仕方がない気がした。
俯く静の、バランスの良い横顔のラインを見やる。
相変わらず、飾り気のないひっつめ髪。
松永家に嫁いだら、毎日、女中に髪を結ってもらうのだろうか。
毎日日替わりで、上等な着物を着せてもらえるのだろうか。
大勢の女中にかしずかれ、何不自由なく暮らすのだろうか。
松永家では、春になると近隣の者を招いて、「松永の桜」の下で花見をするらしい。大きな屋敷に、広い庭。豪華な食事に、煌びやかな生活――。
(皆が憧れる、結婚生活……)
――それでも、相手は腹の出た中年男。
それに、味噌屋。いくら屋敷が立派だろうと、日がな一日味噌臭い中で過ごすのは、自分だったら絶対に嫌だ。
気づけば、静の縁談にケチをつけようとしていて、久子は慌てて卑屈な思いを打ち消した。
(いけない、静ちゃんのおめでたい話なのに)
要するに、自分は静の結婚が羨ましいのだ。
富豪と縁談が纏まったことが羨ましい。
このところ、久子は少々焦っていた。
同級生が二人も、在学中に嫁ぎ先を決めたからだ。
学校を卒業したら、自分も本格的に婿探しに取り組まねばならない。のんびりしていたら、いくら容姿が優れていようとも、行き遅れるかもしれない。
「女学校卒業」という完璧な学歴もある。
何も心配はいらない。何も心配はいらないはずだが――。
「静ちゃん、良かったね。菖蒲地区の松永と言えば、大金持ちよ! うちもお味噌は、松永味噌のものと決めているの」
「――うん」
久子の葛藤など露知らず、静は相変わらず意気消沈している。気持ちはわかるが、恵まれている自覚がないのに、ほんの少しだけ腹が立った。静や静の両親が苦労して立ち回ることなく、相手方から見初められたというのに。焦る気持ちを堪えて、祝福しているこちらの気も知らずに。
「静ちゃん、だめよ。みんな、静ちゃんの結婚を心から祝っているんだから。笑顔でお礼を返さないと、失礼になるわ」
静は、はっと我に返って顔を上げた。
「――そうね。ごめんなさい」
「おめでとう、静ちゃん。私、自分のことのように嬉しい」
「ありがとう」
静は控えめな笑顔を見せ、それから少し恥ずかしそうに俯いた。
「……私ね、学校の先生になるのが夢だったの」
初めて聞く静の夢に、久子はひどく驚いた。卒業してもなお、まだ勉強を続けたいとは物好きな。静らしいと言えば、静らしかった。
「そうだったの。初めて聞いた。――山辺先生のような?」
静ははにかんだ笑顔を見せ、こくりと頷いた。
「どうしたら教師になれるのか、先生に何度か相談していたの」
すっと血の気が引いた。
久子の知らぬところで、静と山辺先生は密かに面談をしていたのか。学校ではずっと静と一緒に行動していたつもりだったのに、いつの間に。ただの進路の相談だ、と自身に言い聞かせても、冷えた指先になかなか体温が戻って来ない。
朝、山辺先生に声を掛けられ、幾度も三人で登校した。一緒に歩けて嬉しかった。けれどあの時、山辺先生は、久子より静を、より気にかけていたのだろう。
「――先生は、なんて?」
「『勉強を続けなさい』って。私、松永の家に行っても、勉強を続けられるかしら……」
静の声がなかなか頭に入ってこない。静の目を直視できず、久子は視線を外したまま、静の肩を撫でた。
「――きっと大丈夫よ。大丈夫」
きっと、大丈夫。何もかもうまくゆく。今、親友の顔を見られないのは、自分に余裕がないだけだ。
大丈夫。私もきっと幸せになれる。