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第35話 幕間 泡沫の夢

 ああ、やはり、リボンは青にすればよかった。

 濃紺のセーラー服に赤いリボンでは、少し子供っぽい。


 前を歩く同級生の後ろ頭を見て、菅野久子かんのひさこは、急に落ち着かない気分になった。自分も赤い幅広のリボンをつけてきている。しかも、マガレイトに結った髪の、上下に二つも。

 つい先日、制服がセーラー服に変わった。これまで着ていた矢絣やがすりの着物には、鮮やかな赤色のリボンが良く合ったのだが、紺色のセーラー服には、やや浮いて見える。制服の変化に合わせて、髪型にも気をつけるべきだったと、久子は今日のヘアスタイルを悔やんだ。


 セーラー服を初めて見た時は、全体的に暗く、西洋の女中のようだと思った。だが、袖を通してみると、存外に軽く動きやすい。デザインもモダンで、しかも、心なしか身体全体がほっそりと見えた。久子は、新しい制服がすぐに好きになった。


 風呂敷で包んだ教材を小脇にすれば、道ゆく人々の眼差しを一心に浴びた。

 子供たちや女中たちの羨望の眼差し、青年たちの熱の籠った視線。中には、女性の社会進出を良しとしない、中年男性の冷ややかな視線もあった。しかしどれも久子にとっては、心地の良いものだった。注目されるのが好きだ。どんな種類の視線でも、浴びれば浴びるほど気分が高揚した。

 今朝も多くの視線を浴び、久子の足取りは軽やかだ。


 登校する女学生の群れの中に、地味なひっつめ髪の後頭部が見えた。きつく一つに束ねた髪を、ただ背中に垂らしている。編んでもおらず、リボンをつけてもいない。寝坊でもしたのかと思うほど質素な様子だが、あの子にとってはいつも通りのスタイルだ。髪や身なりに、ほとんど気を配らない。

しずちゃん」

 久子は、栗色の頭に向かって呼びかけた。が、伊藤静いとうしずは気づかず進んでゆく。

 小さな形の良い後頭部。静の髪は色素が薄く、日を返して、茶色に光っていた。この前旅行で訪れた、小布施市の栗を思い出した。破れた殻から飛び出す栗の実は、油を塗っているわけでもないのに、磨いたように艶々と光り輝いていた。静も同じだ。静にも、飾り立てる必要などない、自然の美が備わっている。

「静ちゃん!」

 二度目の呼びかけで、ようやく静が振り向いた。

「おはよう、久子ちゃん」

 質素なひっつめ髪に、矢絣の着物に袴。静はまだ、新しい制服を購入していない。それでも、振り返った笑顔は誰よりも美しかった。

 雛人形のような小さな白い顔、滑らかな線を描く頬。瞳はいつも、今にも泣き出しそうに潤っていて、今は陽光を返してキラキラと光っている。微笑むと、ふっくらとした頬に笑窪が出来た。

 美人は三日で飽きるというが、毎日静に会っているのに、飽きることなく見惚れてしまう。自慢の親友だ。

 しかし、静の白い顔には、ひどく目立つくまが出来ていた。

「静ちゃん、ひどいクマ。また、夜遅くまで勉強をしていたんでしょう?」

 静は、ふふふ、と小首を傾げて笑った。

「違うの。昨晩はつくろい物。ここ、穴が開いてしまったから」

 そう言って、静は着物の袖を摘まんで見せた。

 上手に矢絣の模様に紛らわせ、赤い糸で縫った跡がある。

「――新しい制服、買わないの?」

「あと二年だし、私はいいわ」

 静は繕った部分を撫でながら、首を振った。

 静の家は決して裕福ではない。村の外れに狭い畑を持つ、小さな大豆農家だ。

 静とは、小学校で出会い仲良くなった。小学校を卒業したら、お別れになるだろうと覚悟していたのだが、静も女学校に進学して驚いた。嬉しかったが、まさか静の両親が、静を女学校にまで行かせるとは思わなかった。

(無理をしてでも、静ちゃんを女学校に行かせたかったのね)

 静は美しい。きっと静の両親は、静を良家に嫁がせるため「女学校卒業」の箔をつけたいのだ。


 静の静謐な横顔を見ていると、久子はいつも複雑な気持ちになった。

 天は二物を与えない。

 静は「美」と「頭の良さ」を与えられたが、貧乏だ。着物はいつも着古したもので、文房具も誰かのお古だ。ノートは隅から隅までびっしり書き込み、なおかつ、なかなか新しいページを使おうとしない。

 きっと静の両親は、静が良家に嫁ぐのを運命を賭する気持ちで願っている。静が金持ちに嫁ぎさえすれば、家はひとまず安泰だ。


 一方、久子は大きな材木問屋の一人娘だ。家は裕福で、新しいセーラー服もすぐに買ってもらえた。今日は徒歩で登校しているが、自転車も持っている。だが、勉学には自信がない。

 ……「美」については、静ほどではないが、並以上の容姿であるとは自負している。つい先日にも、近所の青年に熱っぽい視線を向けられたばかりだ。


 どちらが幸せだろうと比べ、馬鹿なことを考えるのはよそうと頭を振った。

 違う人間を比べて何になる。


 右肩にふと、春風のような温もりを感じて、久子は顔を上げた。

 担任の山辺やまべ先生が隣に並んでいた。

「二人とも、早いですね」

「先生、おはようございます」

 静と声を合わせて挨拶をする。山辺はにっこりと微笑んで「おはよう」と返した。

 低く穏やかな声に見合った、優しい目元。それとは真逆に、背広に包まれた広い肩。背広からは、日を浴びた畳のような懐かしい匂いがした。

 今日は良い日だ。朝から先生と並んで歩けた。

 山辺の背広に触れそうで触れない、セーラーの右肩がじわりと熱くなる。


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