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第33話 幾星霜の呪いの子・下

 空には厚い雲がかかり、昼だと言うのにあたりは薄暗い。冷たい空気が足元に淀み、立ち止まっていると冷気が下から這い上がってくる。

「……川って、あっちかな?」

 司がアパートの背中側を指さした。アパートの向こう側に、小高く盛り上がった芝生の堤防が見える。

「たぶん、そうだ。見てみようか」

 敷地内を突っ切って奥まで行くと、モルタルで舗装された堤防へと繋がる階段を見つけた。階段を昇ってゆくと、幅五メートルほどの川が現れた。

 菖蒲地区を東西に渡る糸寄川いとよりがわだ。

 風がないので川面が暗く澱んでいる。

「ここで溺れて死んだの? 本当に……?」

「わからない。誰も、静さんの最期を見ていない」

「……」

 天女のように美しいと誉めそやされていたのに、屋敷に軟禁され、最期はどうやって死んだのか、誰にも知られない静。気が狂ったと噂され、誰にも顧みられずに――。

「静さん、かわいそう」

 常から他者の気持ちに強く共感する司が、苦し気に喉元を押さえた。

「ここで楽しいと思ったことはあったのかな……? 辛いことばかりだったんじゃないかな? 想像すると苦しくて」

「……子どもが、三人いたんだ」

 言ってから、だからなんだ、と自問した。

 子どもがいればそれだけで幸せなのか。子どもがいたのに、自由に会わせてもらえなかったのでは、辛さは何倍にも増したのではないか。――それに、子どものうち二人は、病気と事故で死んでいる。


「ひいおばあちゃんを縛るものは、もう何もないよ」

 暗い川面を見つめながら、司が呟いた。

「――松永家は、もうなくなっちゃった。だから、ひいおばあちゃんも、もう自由だよ」

 曾祖母に向かって語り掛けながら、司がどんどん堤防を下って行く。川に入りそうな勢いで進むものだから、崇文は、小学生の頃のように司の手を取り自分の手と繋ぎ合わせた。ようやく司の足が止まる。

 司が、その場で頭を垂れた。顎まで伸ばした髪が、司の白い横顔を隠した。

 崇文も目を閉じた。

 まだこのあたりに彷徨っているのだろうか。

 まだ松永家を恨んでいるのだろうか。もし、まだこのあたりにいるのなら、どうか成仏してほしい。

 そして、これまで静の存在に気づけなかったことを、心から詫びた。

 数珠を取り出そうとポケットの中に手を入れると、指先につるりとしたプラスチックが触れた。小さなプラスチックパウチに入れた、長栄寺の敷地内の砂だ。

 亡き祖父は、出張や旅に出る際、必ず自宅の土を身に着けて出かけた。無事にこの土の場所まで戻って来られるようにとの願掛けだそうだ。

 はじめは甲子園の球児じゃあるまいし、と笑っていたのだが、祖父が、これのおかげで戦後の混乱期も、大きな災害に遭っても家に帰って来られたと語ると、笑ってはいられなくなった。気持ちの持ちようだとわかっていても、重要な験担ぎに思えてきた。いつの間にか、父と真似るようになっていた。

 崇文はパウチの口を開け、川に向かって砂を放った。わずかな砂土は、空気に舞ってすぐに見えなくなる。

 ――これは貴方の曾孫ひまごが暮らす土地の砂です。

 貴方を縛り付けた松永家はもう消えて、子孫は遠く離れた地で自由に暮らしています。どうか貴方も、ここではないどこかへ――。

 片方の手で数珠を手繰り、祈り続けた。

 びゅう、と一陣の風が吹き、司の髪を舞い上げた。

「すごい風、」

 司が髪を押さえて空を見上げる。

 すぐに、服がはためくほどの強風が吹き始めた。足元の芝が、右へ左へ、葉先を激しく震わせている。さっきまで暗く澱んでいた川面が、大蛇の腹のように大きくうねり、不規則に波立った。

(なんだ?)

 竜巻でも発生するのかと辺りを見回した。気付けば、長い堤防には、崇文と司以外、誰もいなくなっていた。鳥の一羽さえも、飛んでいない。

 立っているのも辛いほどの強風が襲ってくる。

「司っ」

 砂を含んだ突風が顔に吹き付け、目を開けていられなくなった。視界が狭まる中、司の手だけは離すまいと、両手で司の左手を掴んだ。

「司、しゃがめっ、川に落ちるっ!」

 びゅうびゅうと風が吹きすさび、司の返事が聞こえない。立っているのも困難な中、司は、川を見つめて立ち尽くしていた。いくら手を引いても、石像のように動かない。瞬きもせず川面を見つめ、なおも近づこうと、足を踏み出そうとしている。何度呼び掛けても、こちらを振り返りもしない。

 川に取り込まれそうで、ぞっとした。

「司!」

 司の腰に両手を回し、体当たりして芝に押し倒す。崇文の体重を受け止め、ようやく司が目を瞬いた。瞳に、正気の光が戻ったように見えた。

「司っ、司っ! 俺の声、聞こえてるか!?」

 大丈夫だと言うように、司が小さく頷いた。崇文の身体の下で、首を捩じって再び川面を見ようとしている。これ以上川を見て欲しくなくて、司の上に覆いかぶさった。

 やがて、司の両手が首に回された。

「――大丈夫。もう、大丈夫」

 引き寄せられ、耳元で何か囁かれた。興奮と、自分の鼓動の大きさで、何と言われたのか聞き取れなかった。

「何? なんて言った?」

 訊き返しても、司は何も返さない。いつの間にか、強風はぴたりと止んでいた。

 川に、静の姿でも見たのだろうか。

 静が、司に何かを伝えに来たのだろうか――。

 風がやみ、空気が温み始めても、司の身体を離すことができなかった。

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