「静さんはどうなったんですか? 芳子さんと一緒に、市街地に移り住んだんですか?」
崇文が勢い込んで訊くと、老人は腕組みをして「それが、よくわかんねんだよな」と首を傾げた。
「わからない?」
「正男さんとその息子が亡くなったときに、喪服を着ているのを見かけたんだけど……げっそりとしてたよ。清二さんが亡くなったときには、もう姿を見せなくなってた。二人も息子を失って、おかしくなっちまったんじゃねえか、なんて親父は言ってたよ」
何せ普段から表に出てこないひとだから、と老人は嘆息した。奥で臥せっているのか、離縁してどこかへでも行ったのか、家が隣近所というだけではわからなかったと語る。
老人は一枚の写真に目を留めた。
「あ、ほら。この写真、ほんの少しだけ静さんが写っている」
「どこ!?」
司と揃ってアルバムに齧りつく。
芳子が玄関先でシャボン玉を飛ばしている写真だ。開け放たれた玄関扉の奥、廊下の暗がりに人影が見える。目を凝らして見ると、暗い色目の和服を着た女性が棒立ちしている。
「これ……?」
顔の上半分は切れてしまっているが、司によく似たシャープな顎のラインと品の良い口元が写っている。着崩れた襟元からのぞく首の白さが、暗がりにぼんやりと浮かび上がっていた。
たしかに綺麗だ。綺麗だが、じっと見ていると、ぞくりと悪寒がするような不気味さがあった。
「暗くて……なんか、ちょっと怖い」
司が小さな声で呟いた。
「旦那さんも息子さんも亡くして、精神的に病んじゃったってことですか……? それとも、身体の具合がよくなかったんですか? どっちにしろ、医者に診てもらったりは?」
「しないさ」
とんでもない、とでも言う風に、老人は顔の前で大きく手を振った。
「家族に気の触れた者が出たなんて、言えないさ。そんな、みっともない」
「……」
二人が黙り込んだのを見て、老人が慌てて付け足した。
「ちゃんと食事は与えられてたと思うよ。廃れても金持ちだからね、美味しいものたべさせてもらってたんじゃない?」
「……おじいちゃん、」
司が言葉を詰まらせる。泣き出しそうな表情をしていて、困惑しているのが伝わってくる。崇文も、どう反応してよいのかわからなかった。唐突な非人道的な発言に、これまで親切に接してくれていた老人が、言葉の通じない宇宙人のように見えてくる。
「失踪したとか、夜中に屋敷を抜け出して、裏の川で溺れ死んだとか、静さんに関してはウソかホントかわかんない噂をいくつか聞いたね。おしゃべりな女中たちが、口さがなく噂してた」
「そんな、川で死んだなんて……」
「離れの座敷牢さ繋がれてたって噂もあったね」
「座敷牢!?」
「あくまでも噂だよ。おれも
「……」
「とにかく、静さんさえもっとしっかりしてたら、お隣もこんなことさならなかったのになぁ。ちゃんと旦那のことを見てあげられてたら、違っていただろうに」
老人の言葉に、司が眉を
「……どういう意味ですか?」
「女は旦那のことを優しく面倒見てあげなくちゃ。男は、家族のために外で必死に働いてんだからさ」
こうした、悪気無く他者の人生を思いやれない人間は、たまにいる。特に高齢の男性の中には、女は男のために存在しているのだと、疑いもしない人間がいる。
「閉じ込められていた上に責任を押し付けられるなんて……静さんが可哀そうじゃないですか……」
「……」
それきり、老人は窓辺の座椅子に移動すると、黙り込んでしまった。
松永家に関する知識を出し尽くしたのか、話し疲れたのか、窓の向こうの隣の敷地をぼんやりと見つめている。やがて目が糸のように細くなり、頭が船を漕ぎ始めた。
小さな声で礼を言い、老人の家を辞去する。
外に出るなり司に袖を引かれた。
「ねえ、座敷牢なんて嘘だよね」
「……嘘だと思いたいけど、今となってはわからない」
「嘘だよ、きっと。だって家族に閉じ込められるなんて。……そんなのありえない」
そんなの地獄、と司は辛そうに顔を歪めた。
松永家に関する話を聞けて、収穫は大きかったはずなのに、二人の口は重かった。会話がそれきり続かない。
松永家の敷地に戻り、かつて蔵や屋敷があった場所にたつアパートをそろって見上げた。
「今はなんにも残ってないから、静さんがどうなったのか……」
老人の言う座敷牢があったのか、静がどこで生を終えたのか、何もかも、今となってはわからない。
松永家に嫁いでからの静の人生を想像してみる。
早くに松永家に嫁ぎ、淡く思い描いていた将来の夢は泡沫のように消えただろう。十代の少女が親元から離れ、他所の家の生活に馴染むまでどれくらいの時間を要しただろうか。
年の離れた夫、多くの従業員を抱えた商家。気苦労が絶えなかったのは想像に難くない。本人は納得した上での結婚だったのだろうか……。
十代――。成人前の頃と言えば、崇文は大学で将来に向けて勉強していた頃だ。僧侶になるための勉強や修行が大変で、常に眠かったのを覚えている。辛いこともあったが、楽しかった思い出が大半を占めている。整った環境の中、友人にも恵まれ、自分の選んだ道を進めていた。
若い職人との一件からは、奥に閉じ込められ、表に立って味噌屋の経営を手伝うことも、普通に生活することもままならなかった静。どんなに窮屈だったか。
唯一の頼みの綱である正太郎は外で愛人を作り、あまつさえ、そのうちの一人が蔵で首を吊った。
……最後に老人が言ったように、お前がしっかり夫の手綱を握っていれば、こんなことにはならなかったと責める者もいたかもしれない。
自由を奪われ、仕事を奪われ、尊厳も奪われた。
蜘蛛の糸のように頼りなかった夫への愛情は、裏切られ、向こうから切って捨てられた。窮屈では済まされない。司の言う通り、地獄だ。
十代後半から清二を亡くす四十代まで、静は何を心の支えに生きていたのだろう。
どんなにか自分の人生を呪い、正太郎を、松永家を呪ったことだろう。
――呪いは五条千代のものではなく、静ではないか……?
松永家がなくなればいいと一番強く願い、呪ったのは静ではないだろうか。
そして、司を危険に晒さぬよう、長栄寺に隠そうとしていた自分の行為が、静に対する正太郎の所業と重なり、愕然とした。恐怖と悪心が、喉元までせり上がってくる。――同じだ。自分は司に対して、正太郎と同じことをしている。