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第30話 幾星霜の呪いの子・下

「松永さんとこさ芳子ちゃんていうお姉さんがいてさ。おれが小さい時は、よく遊んでもらったんだ」

 芳子――司の祖母だ。幼い司を長栄寺に預けにきた。

 芳子の名前が出て、崇文の心臓は早鐘を打つように鳴りだした。当時を知る者から話を聞くのはもう無理だろうと諦めていたが、灯台下暗し、すぐそばにいた。

「親父さ弁当とか水筒を届けに行くのが楽しみだったな。芳子ちゃんさ会えるから」

 老人は冷蔵庫からお茶のペットボトルを出すと、三つのグラスに注ぎ入れ、ダイニングのテーブルに並べた。司がお礼を言ってすぐに口をつける。

 老人の自宅は、松永家跡地のすぐ隣に、ひっそりと佇んでいた。かなり古い家だ。

 玄関を入ってすぐにダイニングを兼ねた台所があり、奥に生活感の溢れた和室が見えた。冷蔵庫も、角のささくれだった木製のテーブルも、窓辺に置かれた座椅子も、かなり年季が入っている。

 和室の片隅に据えられた大きな液晶テレビだけが、黒々と艶を放ち、セピア色に染まった部屋の中で浮いていた。


「芳子ちゃんが女学校に通っている頃。あの頃が一番、たーくさんのひとが松永さんとこで働いていたなぁ。一日中、職人や取引先が出入りしていた」

 幼かったので、味屋の商売のことはわからないが、敷地内で自殺騒ぎがあったことは憶えている、と老人は語り出す。

「いつものように親父さ弁当を届けようと、あの、竹垣のそばまで行ったんだけどね」

 そう言って老人は窓から見える、隣家の松永家跡地を指さした。

「親父が血相変えて走ってきて、今日は松永の家に一歩も入っちゃいけないって言うんだ。『なして?』って訊いても、なんも答えなくってね」

 しつこく追いすがったら怒鳴られたよ、と老人は苦笑いした。


 その日から数日間は松永家に足を踏み入れることを許されなかったという。仕事に出かけてゆく父親の顔つきも険しく、さては従業員の誰かが金でも盗んだか、などと探偵気取りでいると、今度は当主の正太郎が死んだと仰天のニュースが飛び込んできた。

「作業中の事故で死んだって聞いて、気の毒だなあ、芳子ちゃんが悲しんでいるだろうなあって思ったよ」

 その夜老人は、正太郎の愛人が味噌蔵で首を吊り、その数日後に正太郎まで味噌蔵で死んだと、両親が居間でこそこそ話しているのを立ち聞きした。

「おふくろが、女の怨念だとか、浮気性の正太郎さんにばちが当たったんだとか言ってたけど、おれはそうは思わなかったね。ただの事故だと思ったよ。味噌蔵って見たことある? 味噌づくりの桶は、梯子を使って昇らないと淵まで届かないくらい大きいんだ。そりゃあ落下事故も起こるさ」


 だが、その後も松永家では、奇妙な事件が続いた。

「正太郎さんの葬式が済んだあと、長男の正男さんが味噌屋を継ぐことになってね。正男さんはすでに正太郎さんの片腕として働いていたから、自分がついに一国一城の主になったって張り切っていたみたい。悲しんでばかりもいられないって、従業員を鼓舞していたよ。けどそんな時にコレラさなっちゃってねぇ。かわいそうだよなぁ」

「コレラって、その頃流行っていたんですか?」

「いやぁ、コレラさ罹っている奴なんか、ほとんどいながったよ」

 明治初期に猛威を振るったコレラは、大正、昭和に入ると流行はかなり下火になっていたはずだ。清潔が保たれた広い屋敷で、いったいどうしてコレラに罹患してしまったのか。しかも味噌づくりを家業とする、菌の扱いには重々気をつけていたはずの人間だ。考えてみると奇妙な話である。

 正男がコレラにかかると、生まれたばかりの息子・一正かずまさにも飛び火し、二人は発症してたった一週間で死んでしまう。

 その時も老人は松永家に遊びに行くのを禁じられた。さすがにこの時ばかりは、老人の父親も松永家に入ることを許されなかった。コレラの菌が死滅するまで、松永味噌醸造はしばらく営業を停止していた。

 家族を失い、さらには松永家での居場所も失った、長男・正男の妻は、離縁して田舎に帰った。

 長期に渡る仕事場の閉鎖で、辞めてゆく従業員も続出した。

「騒動が収まった頃、次に当主になるのは次男の清二さんだってなったんだけど」

 老人はそこまで言うと「清二は好かねえやつだ」と眉をしかめた。

「あいつは自分が家業を継ぐことはないだろうと思ってたんだろうね。仕事を手伝いもせず、でも家が金持ちなのを自慢して町で遊んでばかり。まだ学生だってのに酒場さ出入りしたりして……」

 正太郎さんの悪いとこばかりを寄せ集めたような男だ、と吐き捨てる。

「味噌づくりや商売の勉強をしなくちゃならないって時に、町で飲み歩いて、帰りに馬車さ轢かれて死んじゃった。あれはばちが当たったんだ」

 幼い時分に虐められでもしたのか、老人は、次男・清二を悪しざまに語った。

「そうだったんですか」


 以前に崇文が調べた通りの話だった。だが、やはり当時を知っている人間から聞かされる話は臨場感が違った。突然、敷地内に入ってはいけないと父親に叱られるくだりは、当時の千代の自殺事件の混乱ぶりがよく伝わってくる。

 当主を失った松永味噌醸造は、しばらくの間は古くからいる職人たちでなんとか切り盛りしていた。だが、商いの才覚に長けていた正太郎を失い、従業員の数もかなり減り、経営は先細りになっていったという。

 老人は、松永味噌醸造が衰退していくのを目の当たりにしていた。

「芳子ちゃんが十九になると隣町の米問屋から婿を取ってね、二人で松永を盛り返そうって頑張ってたんだけど」

 商売ってのは難しいものだね、と深々と溜息を吐いた。

「芳子ちゃんの頑張りは届かなかった」

 味噌を使った煎餅や米菓子を販売して再起を図ったそうだが、そううまくはいかず、二軒あった味噌蔵は一軒に減り、屋敷で働いていた使用人の数も半分にまで減ってしまった。


「そんな中、信頼していた女中さ息子を殺されちゃったんだから……。ショックだったと思うよ。両親ともどもふさぎ込んで、芳子ちゃんなんかもう、薄っぺらい紙みたいに痩せちゃって」

 老人は、紙を摘まむように親指と人差し指をくっつけてみせた。

 やがて芳子の夫は、長男の死を苦に首を吊ってしまう。芳子はついに松永味噌を畳んで、母娘二人だけで仙台市中心部の小さな家へと移り住んだ。

「その時はじめて、お隣はなにかさ祟られてんのかと思ったね。おふくろが言ってた『女の怨念』ってのも、あながち間違ってないのかもなって」

 そう言って老人は窓から見える隣の敷地をぼんやりと見つめた。かつて隆盛を極めた松永味噌を思い出しているように。


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