宿泊するホテルのある市街地に戻ってくる頃には、すっかり日が暮れ、繁華街の灯りが賑やかに明滅していた。
「夜ご飯、なに食べる?」
「……昼間っからずっと食べ物の心配してるな」
「だってもう七時だよ? それに、せっかく旅行に来たんだし」
旅のはじめから機嫌のよかった司だが、西延寺の住職と話してからは、すっかり憑き物が落ちたようだった。寺を出た途端、夕飯には何を食べようかと訊いてきて、バスの中では夕食の店をひたすら検索していた。
千代の墓を訪れた後だと言うのに、よく食欲が湧くものだと脱帽する。
千代の墓は今も丁寧に供養されていた。自然の豊かな場所で、日々懇ろに弔われていた。墓を管理する住職は信用に値する人物で、見た目の険しさに反してとても温かい人だった。それらを確かめられたのは、この旅最大の収穫だった。
(自分から、呪いを受け入れていた……?)
千代は今、静かに眠っている。呪いなどなかった。
それで終わりでいいのだろうか?
「呪いが解けた」という目に見える成果などないものだから、今ひとつすっきりせず、解決した実感がまるでなかった。
(いけない)
さっき西延寺の住職に言われたばかりではないか。「呪い」は、呪われたと信じる者があってはじめて成立するのだと。
もうよそう。司の為にも、自分の為にも、呪いの存在を肯定するような真似はしたくない。千代の呪いに振り回されるのは、もうたくさんだった。
「崇文! あれ、あれにしよう」
通りの向こうを指さし、司が声を弾ませた。片側三車線の大きな道路の横断歩道の向こうに、「炉端焼き」と書かれた飲食店の看板が見える。
「美味しそう!」
目を輝かせる司の顔を見ていると、呪いは本当に消えたのだという気分になってきた。
いや、もともと呪いなど存在しなかったのかもしれない。
恐れるあまり、家族全員で司を死なせたくないと祈るあまり、ありもしない幻影を作り出していたのかもしれない。
「よし、あそこにしようか」
思えば、司と旅行するなど小学校の時の家族旅行以来だ。性別を偽っていたので、司は修学旅行の
当時は家族全員で司を守ろうと必死だったが、今思えばひどく可哀そうなことをしていたと思う。
「今日は俺が奢ろう」
「やった! ホテルも近いからお酒も飲んじゃおうよ」
「いいけど、ワインはだめだぞ。司、ワイン飲むと所かまわず寝るからな」
「了解、日本酒にしとく」
はしゃぐ司を見ていたら、様々な思いが込み上げてきた。
命を守る為とは言え、これまで、どれほど司に我慢を強いてきたのだろう。
性別を偽ることがなかったら、何をしたかっただろう? どんな仕事に就きたかっただろう?
少なくとも、寺の近くのさびれた喫茶店で、安月給で働きたいとは望んでいなかったはずだ。
隣を見ると、司の瞳がイルミネーションを映して煌めいていた。
肩まで伸ばした髪。いつも穏やかな笑みを浮かべた口元。
これまで、司が好きなように生きたいと我儘を言ったことはなかった。両親に反抗する姿も見たことがない。
今まで、誰か異性を好きになったことはあるだろうか?
異性でなくてもいい。嘘偽りのない本来の自分の姿を、さらけ出したいと思った相手はいただろうか。
恋人でなくても、なんでも話せる友人とか、仲間は……?
司の同級生の顔が数人浮かんだが、彼ら、彼女らが司の家に泊っているところや、一緒に旅行しているところなど、一度も見たことがなかった。
――自分たち家族は、「司を生かす」という大義名分のために、司の人生を台無しにしてはいなかっただろうか。
「行こう」
ぐい、と腕を引かれ、我に返った。身勝手な感傷に浸っていたのを悟られないよう、顔を上げた。
青信号に変わった横断歩道を、大勢の人間が歩き出した。魚の群れのように一斉に同じ方向に動く。崇文たちも流れに乗った。歩道を渡り切ると、背後で幼い子どもの泣き声がして、後ろを振り返った。
「わ、大変そうだ」
横断歩道の中ほどで、幼い少女が母親のスカートに縋って泣いている。おそらく抱き上げてほしいとせがんでいるのだろう。若い母親は、両肘に重そうな袋をさげ、さらにベビーカーを押していた。「もうちょっとだから。がんばって歩こう」と、少女を励ましている。
横断歩道へ戻り、崇文は母親の荷物を請け負った。司は、泣いている少女に優しく手を差し伸べる。
「お姉さんと手を繋ごう」
見知らぬ大人に声をかけられ、ますます泣くかと思ったが、司の巧みな誘いで少女は泣き止んだ。鼻水を垂らしたまま、司の顔を凝視し、おずおずと司の手を掴んで歩き出す。母親はベビーカーを押しながら、「すみません」と繰り返した。
「本当にありがとうございました」
横断歩道を渡りきると、母親は、少し先の駐車場で夫が待っていると言い何度も頭を下げながらその場を去った。
「ばいばーい」
司が手を振ると、少女も遠慮がちに手を振り返した。
少女と同じ目線になるようしゃがみ込み、司は、二人の姿が見えなくなるまで手を振っていた。
「行こうか」
しゃがむ司を見下ろすと、司の背中が光っていた。
ベージュのダウンが、白く発光している。次第に、髪も、肌も白一色に光り出した。
左から、目を眇めるほど眩しい光が射している。見ると、驚くほど近くに、乗用車のライトが迫っていた。司の背中から数メートルのところに、車が近づいてきている。白のセダン。音は、不思議なほど何も聞こえなかった。
「つかさっ……!」
司の腕を掴み、全身全霊の力で引き揚げた。
どん、と重い衝撃を感じ、掴んでいた司の腕ごと、歩道の奥へと吹き飛ばされた。