翌日、朝の勤行を終えると、崇文は再び落合邸を訪れた。
早朝の光の中、焦げた落合邸だけが墨絵のようにぼんやりと浮かび上がっている。
中の瓦礫が運び出され、落合邸は柱と屋根だけの、東屋のような状態になっていた。そこに何人もの警官が出入りし、忙しそうに内部を検分している。
家の周囲には真新しい立ち入り禁止テープが張られ、警官が一人、門番のようにして立っていた。警察以外は決して立ち入らせないという物々しいオーラを放っている。
規制線の近くまで寄って様子を見ていると、門番の警官に「これ以上近づかないように」と制された。
(最悪の幕引きだ)
行方不明の女子高生が、中で遺体となってみつかった。落合邸の最奥、折り重なった瓦礫の下に加藤優花はいた。
昨夜助けを求めていたのは、優花だったのだ。
こんなにそばにいたのに……。
ここまで来ていたのに、助けることができなかった――。昨晩は、帰ってからも一睡もできなかった。
犯人は清水だった。
家の前を通った加藤優花に声をかけて自宅に誘い、数日の監禁の後、首を絞めて落合邸の瓦礫の下に放置した。
(あの時、助けられれば)
昨晩、加藤優花にはまだ息があったのだ。あの、ガリガリと床を引っ掻く音――。あれは優花が最後の力を振り絞ってたてた音だ。優花が瓦礫の下で目覚め、何とか外に出ようともがく姿を想像すると、悔いても悔いてもやりきれなかった。
(あの時、無理にでも入っていれば)
優花は今も生きていたかもしれない――。
崇文は手のひらに爪が食い込むほど拳を握り締めた。
警官に深々と頭を下げ、重い脚を引きずって長栄寺へと戻った。
「この前はご苦労だったな」
加藤優花の遺体発見から数日後、佐々木が長栄寺を訪ねてきた。珍しく私服姿で、今日は二週間ぶりの非番なんだと控え目な笑顔を見せた。
事件がいちおうの解決となり、ようやく休みが取れたのだろう。髭がきれいに剃られ、いくぶん顔色も良くなっていた。けれど身ぎれいにした顔に、拭いきれない暗い疲労の影が刻まれていた。おそらく今の自分も、同じような顔をしているのだろう。
「高校生たちの騒ぎが事件解決の糸口になった。まあ、よくはないんだけど……よかったよ」
「うん」
「崇文も、よくおかしな場面に居合わせるよな」
「――たまたまだ」
落合邸に加藤優花を遺棄した清水は、常に隣の火事跡に注意を払っていたようだ。物音がする度に飛び出して、人払いをしていたらしい。隠した遺体が見つからないかと気が気でなかったのだろう。高校生たちが喋るちょっとした物音だけで、ものすごい剣幕で走り出てきた
「正直、地元の住民が犯人だとは考えもしなかった」
情けない、と佐々木は重い溜息を吐いた。
地元を愛しているからこそ、佐々木の落胆ぶりは見ていて痛々しいほどだった。
「俺も驚いたよ」
「清水のじいさん、家の前を通る女子高生によく話しかけていたらしいんだ。数年前に奥さんを亡くして寂しいんだろうって、周囲は大目に見ていたらしいんだけど」
「……」
「まさか、こんな事件に発展するなんて誰も……。寂しかったのはわかる。ずっと仕事一筋だったから、近所のコミュニティにも入れずに孤立して……。けど……! だからって、」
「佐々木」
苦しそうに吐露する佐々木を遮り、もうやめよう、と肩を揺すった。
罪を犯した理由や心情を探ろうとしても無駄なことだ。誰も、清水の胸中まで覗き見ることはできない。
それに、どんな事情があったにせよ、人の命を奪っていい理由にはならない。決して許されない。
自身の寂しさを埋めるために監禁され、命を弄ばれたのでは、死んだ優花が可哀そうでならない。
「後悔してるんだ。もっと清水のじいさんの話を聞いてやればよかったって。もっとこまめに様子を見に行けばよかったって。そうしたら……」
胸のつかえを吐き出すように佐々木が吐露し続ける。たらればの話をしだしたらきりがないが、ここでしか吐き出せないのかもしれないと思うと、最後まで聞いてやろうと黙っていた。
「そうしたら今回の事件は未然に防げたかもしれない」
「うん」
「まだ十七歳だったんだ、彼女。両親の気持ちを思うと……。俺、もっとできることがあったんじゃないかって」
言葉を詰まらせ、佐々木が項垂れる。
もっとこうすれば。あの時ああしていれば。何かちょっとしたことでも行動を変えていれば、十七歳の命は助かったのではないか――。皆、それぞれに重い後悔を胸に抱えている。それくらい、誰にも想像できない事件の顛末だった。
しばらくして、はあ、と息を一つ吐き、佐々木が顔を上げた。
「今さら言ってもどうにもならない。……今回の一件を胸に刻んどく」
渦巻く感情を無理に押し込め、佐々木の目の淵は赤く染まっていた。
「――俺も、いまだにあの晩のことを夢に見るよ」
佐々木にあてられ、崇文も胸に澱む思いを吐き出したくなった。おもむろに切り出すと、崇文の気持ちを察してか、佐々木が低く相槌を打った。
「事件の夜?」
「そう。――あの晩、聞いたんだ。女子高生が瓦礫の下から這い出そうとする音を」
「……」
口に出すと、自分の不甲斐なさが突きつけられ苦しくなった。言葉を切ると、もう二度と口にすることができなくなりそうで、一気に吐き出した。
「床を引っ掻く音が聞こえた。あの時、女子高生にはまだ息があったんだ」
「……崇文、」
「彼女、まだ辛うじて生きてたんだ。必死に出ようとしていたんだ! 警察が来る前に助けに入っていればよかった。お前は警察に任せろって言うだろうけど、やっぱり、」
「崇文、おい」
「迷っている場合じゃなかった。あそこで躊躇っていたから……俺が殺したも同然だ。俺が、」
「崇文!」
やけにきっぱりとした声で佐々木に遮られた。「あり得ないだろ」
普段、情に厚い佐々木が、らしくなく一刀両断に切り捨てた。ショックで崇文の声も大きくなる。
「どうして! あの時、司と力を合わせて助け出していれば、女子高生はまだ生きていたかもしれない! 助けられたかもしれな、」
「遺体はバラバラにされてた」
佐々木の平坦な呟きに、発しようとしていた言葉が喉を塞いだ。
「……え」
「――瓦礫の下から見つかった遺体は、バラバラにされていたんだよ。腕と脚、頭部が出てきた。死後十日以上が経過してるって鑑識結果も出た」
バラバラ、という言葉の意味がすぐには理解できなかった。
バラバラ――。
低く平坦なリズムで紡ぎ出されるバラバラ、という音。佐々木の声は、こんなだったろうか。
「…………え?」
「しかもバラした後、焼かれてたんだ。この前話しただろう? 清水さんが自宅の焼却炉で粗大ゴミを燃やして苦情が来てるって。……どうやらあの時、バラした遺体を燃やして証拠隠滅しようとしていたらしいんだ」
バラした遺体――。焼く――。
ふいに、先日佐々木の制服から漂ってきた異臭が鼻を掠めた。焦げ臭いだけでない、臓腑を突くような重いにおい。
「…………」
「けど人体ってのはかなりの高温で長時間焼かないと骨まで消えないらしいからな。黒焦げになっただけの遺体の処理に困って、ちょうど隣に放置されてた火事跡の瓦礫の下に隠そうと思いついたらしい」
佐々木がテーブルに肘をつき、両手で頭を抱えた。重く湿った溜息と共に「胴体は」と苦し気な声を絞り出した。
「女子高生の胴体は、清水家の焼却炉の中から見つかった」
「…………そんなわけ、ない」
佐々木の声が遠のいてゆく。代わりに、あの晩聞いた、床を引っ掻く音が耳に蘇る。
ガリガリガリ、ガリガリガリガリガリガリガリガリ――
渾身の力で床を掻く、爪の音。
「……聞いたんだ、女子高生が……床を引っ掻く音を」
「――空耳だろう。家鳴りじゃないのか?」
「それに、見た……。瓦礫の下で動く、何かを」
一瞬だけ見た。中を照らした時、奥の方で
瓦礫の下からこちらへ向かって伸ばされる、熊手のように先が割れた、人の手のような影。
「何か、見間違えたんだろ」
やや乱暴に背を撫でられ慰められた。
「お前、普段そんなの信じないタイプじゃないか」と苦笑され、言葉を返せなかった。
呪いなんてない。
呪いや祟りや心霊なんて、この世には存在しない。「ある」と思うからそう見えるだけで、すべては強引なこじつけと、思い込みによる幻想だ。
――では、あれはいったい?
落合邸の奥でうごめく、人の手のような黒い影。加藤優花はすでに死んでいた――バラバラにされていた――と言うのなら……。
地面が脆く崩れ落ち、蟻地獄のように、永遠に飲み込まれてゆく心地がした。