玄関から「お邪魔します」と司の声が聞こえてきて、隣で佐々木があからさまに居住まいを正した。
「あ、佐々木くんだ。こんにちは……」
妙な間の沈黙が流れ、佐々木が情けなく眉を下げた。
「司ちゃん、くさいって思ったんだろ?」
「ごめん、少し思った」
「俺が普段から臭いわけじゃないからね」
ふふふ、と司が小首を傾げて笑う。「わかってるよ」
――なんだ、その笑い方は。
佐々木の前でそんなふうに笑うんじゃない、と気持ちが波立つ。そんなふうに愛想を振りまくから、佐々木みたいな鼻の下を伸ばす連中が後を絶たないんだ。崇文は、自分の後ろ側に座布団を敷き、手招きして司を呼んだ。やや強引にそこに座らせ、佐々木から隠すようにした。
……別に司は悪くない。兄を気取って司の人付き合いをコントロールしようとする、自分に問題がある。崇文は自己嫌悪に陥ってむっつりと黙り込んだ。
「なんか焦げ臭い……もしかして、ようやく落合さんちの火事跡の片付け?」
司が眉をひそめて言うと、違うんだ、と佐々木が首を振る。
「落合さん――の隣りの、清水さん宅でちょっとね」
清水家でのひと悶着を話して聞かせると、司も佐々木と同じ感想を口にした。
「清水のおじいちゃん、悪いひとではないんだけどね」
清水家はもともと夫婦で工務店を営んでおり、数人の若い職人が住み込みをしている、小さいが活気のある会社だった。
しかし不景気のあおりを受けて経営が悪化、十年ほど前に会社を畳んでいる。三年前には奥方が病気で亡くなり、清水の主人は、今も一人で工具や資材が残されたままの工務店兼自宅で暮らしている。妻の死と生業をやめたことですっかり内に閉じこもり、日がな一日自宅に籠っているらしい。
とは言え、清水にはもともと協調性に欠けるところがあった。清水が他の住民とトラブルになっているところを、父がよく仲裁に入っていた。職人時代は、激しやすい性格も仕事への意欲が盛んとプラスに捉えてもらえたが、引退した今となっては、友人もおらずすっかり孤立してしまっている。
「寂しいんだと思う。ときどき、中でお茶でも飲まないかって声をかけられるもん」
司はそう言うが、崇文はお茶に誘われたことなど一度もなかった。奥方の眠る墓は長栄寺で世話しているというのに。
「けど、いつも配達中に声かけられるから一回もお邪魔したことないんだ」
今度うちのコーヒーを持って行こうかな、と独り言ち、それから何か思い出したように顔を上げた。
「ねえ。隣の落合さんの火事跡に幽霊が出るって噂になってるの、知ってる?」
「誰がそんな噂してるんだ」
呆れて訊くと、司が苦笑した。
「お店に来た女子高生たち」
「なんで幽霊が出るなんて話になるんだ。誰も死んでないってのに」
「おい住職。言い方」
佐々木に窘められ、崇文は咳払いをして言い改めた。
「亡くなったり怪我したひともいないのに、なんで幽霊が出るなんて話になるんだ」
「焼け跡が放置されてたから変な噂がたっちゃったみたい。片付けようとすると祟りが起こるとか、解体業者に死人が出たとか、中から変な物音が聞こえるとか」
「まだ解体業者が入ってもいないのに、どっから死人が出るんだよ。面白いことを言うな。――それにしても、みんな好きだよな、祟りとか呪いとか」
そんなもの、あるわけないのに、と胸中で吐き捨てる。
「でも、焼け焦げた家がそのままなのは、ちょっと気味悪いよ」
事情を知る佐々木が、「困っているんだよ」と溜息を吐いた。
「家の相続人の息子さんと連絡がつかないんだ。落合さんは撤去費用が出せないって言っているし」
自治体が勝手に片付けることもできず、落合さん宅の火事跡は二週間たった今もそのまま放置されている。
「オカルト系のユーチューバーが撮影に来たりしているんだって。女子高生たちが動画見たって盛り上がってた」
「幽霊も何も出ない焼け跡録って面白いのか? そんな動画、誰が見るんだ」
「結構閲覧数伸びてるらしいよ。私は見てないけど」
「何が面白いんだ、十分やそこらの動画を見て。俺には全然わかんないよ」
心からの疑問を口にすると、司が揶揄うように目を細めた。
「わー、おじさんっぽい発言。もうおじさんの崇文には、動画の良さがわからないんだね。面白いやつは面白いよ」
ね、と司が同意を求めると、佐々木が気色の悪い猫なで声で「ねー」と応えた。崇文は、お前も俺と同い年だろうがと、佐々木に冷たい視線を投げかける。
「まあ若者にとっちゃ、真っ黒こげの火事跡なんか見る機会ないからそれだけで不気味なんだろう」
したり顔で佐々木がその場をまとめた。若者ぶったり、年長者ぶったり……。お前は変幻自在だな、と再び冷たい視線を向けるが佐々木は気づきもしない。
数日後、思いもよらない経緯で落合さん宅の火事跡は片付けられることになる。