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第10話 稲荷の祟りを恐れる女

 110番しようか逡巡し、迷った末に、とある番号に電話をかけた。

 駆けつけたのは、中学・高校のクラスメイトの佐々木だ。高校卒業後、警察官採用試験をパスして警察官になり、現在は地元向町むかいまち警察署の地域課に所属している。佐々木は崇文の顔を見るなり「久しぶり」と呑気な挨拶をよこしてきた。

「久しぶりだな佐々木。わざわざ悪い」

「わざわざって。そりゃ事件があったら来ますよ。で、被疑者は?」

 世間話のついでのように問われ、苦笑しながら案内する。

「こっち」

 軽やかな足取りでついてきた佐々木は、居間へ足を踏み入れるなり、入り口でびたりと立ち止まった。

「わ、司ちゃんもいたのか」

 司の姿を見とめ、ぱっと頬を赤らめる。よろしくお願いします、と頭を下げる司に一瞬目尻を下げ、すぐに顔を引き締めた。そばにいた部下に、先輩風を吹かせて指示を出し始める。

「司ちゃん、怪我はない?」

「私は平気」

「崇文、お前は?」

「おい、随分司と態度が違うな……。俺たちは大丈夫。おそらく彼女も、怪我はしていないと思う」

 崇文が視線で恵を指すと、佐々木は顎を引くようにして頷いた。佐々木の部下の警官が、恵を抱えて立ち上がらせているところだった。

 項垂れたまま立ち上がった恵は、まるで崇文たちが見えていないかのように横を過ぎ、部屋を出て行った。

 佐々木は表情を改めると、手帳を構えて質問を始めた。

「彼女とは知り合いか? どうして刃物なんか持って寺へ?」

 これまでの経緯を説明すると、佐々木は、時おり短い質問を挟みながら、手帳に細かく書きつけていた。

「少し前、在平橋の藤田家から、外出時に外から窓を割られて侵入された形跡があるって被害届が出ていたんだ」

 藤田家が一日中門扉を閉ざしている理由が腑に落ちた。終始、父親が周りを警戒して落ち着かない様子でいた理由も。

「知らない女性が外をうろついているって通報もあってな。嫁いできたばかりの長男の嫁が、それはそれは怯えて……。しょっちゅう呼び出されていたんだ。家に行く前に取り押さえられてよかったよ。それにしても、なんでここで暴れ出したりしたんだ、被疑者は」

「さあ。……どうしてかな」

「――崇文おまえ、被疑者をわざと怒らせたりしてないだろうな?」

 煽ったつもりはないが、藤田家に行く前に核心を突きたかったのは確かだ。少々意地の悪い聞き方をして、彼女をわざと逆上させたと言えなくもない。

「わざと怒らせるつもりはなかったんだけど、」

「そういうことは警察に任せろ! 司ちゃんもいるんだから」

 一喝され、反論の余地もなく崇文は黙った。司のコーヒーをかぶって赤くなった手を思い出すと、胃がしくしくと痛んだ。

「私は、」と身を乗り出してきた司を制し、悪かった、と佐々木に向かって頭を下げた。

「今度からはすぐに警察を呼ぶ」

 しばらく憮然とこちらを睨んでいた佐々木だが「まあ、いい」と息を吐き出した。

「あとはこっちで預かる」

「よろしくお願いします」

 再度司とそろって頭を下げると、佐々木が少し声を和らげた。

「二人に怪我がなくてよかったよ」

 お調子者のようでいて、佐々木は責任感が強く人情深い。早くから将来は警察官になりたいと口にしていて、それを実現させた。強い地元愛と信念が天に通じたのか、うまいぐあいに遠方への異動を逃れ、生まれ育った町で日々理想の道を邁進している。

「では!」

 と、気取った顔で司に敬礼をしている姿は、すっかり普段の佐々木に戻っていた。

 山門で待つパトカーに向かう途中、佐々木が振り向いた。

「お前ら、いい加減、結婚しないのか?」

 何言ってんだ、と言いかけ、言葉を飲み込む。

 代わりに司が「何言ってんの」と笑みを含んだ声で言い返した。

「俺ら、もうすぐ三十だろ? 二人、いつまでもべったり一緒にいて、結婚しちまえばいいじゃないか」

 お似合いだよ、と佐々木が曇りのない笑顔を向けてくる。

「――いいから、早く行け」

 手を払って追いやると、照れるなよ、と言い捨て、佐々木が踵を返した。街路樹の落ち葉を巻き上げ、パトカーが走り去ってゆく。

 パトカーが行ってしまうと、さっきまでの喧騒が嘘のようにあたりが静まり返った。

 いつの間にか日が傾き、日の光がすっかり赤みを帯びていた。まるで火事場の最中さなかにいるようにすべてが朱に染まって見える。

 視界のすみに映る司の横顔だけが、やけに白く浮かんで見えた。

「冷えるな。家に入ろう」

「うん。……なんか、長い一日だった」

「今から店に戻るのか?」

「店長に電話したら、今日はもういいって」

「そうか」

 会話が途切れると、嫌でもさっき佐々木に言われた言葉が耳に蘇った。

『何年もべったり二人でいて、結婚しちまえばいいじゃないか』

 司と結婚しろと、檀家や近所の年寄り連中にもさんざん言われている。

 二人、お似合いよ。

 腐れ縁だ、早く結婚すればいい。

 お前の面倒を見られるのは司くらいだ、などと、訳知り顔で言ってく奴もいる。

 余計なお世話だ、と思う。

 結婚は自分のタイミングでするし、俺は結婚相手に、自分の面倒を見て欲しいなんて望んでいない。


『どうか、どうか、お願いします。司をここで育てていただけませんか? あの子の家族はみんな死んでしまいました。娘の香苗も……。松永家まつながけの呪いはまだ続いています……』

 かつて襖越しに聞いた、司の祖母の声が蘇る。

 なんとか順序立てて話そうと震える声は、かえって切羽詰まった状況にあるのを如実に伝えてきた。

『司は松永家の最後の生き残りです。なんとかあの子だけは生かしてあげたい。お寺のもとで、司を守ってやっていただけませんか?』

 繰り返される「松永家」とはなんなのだろう。

 司の祖母の必死の訴えに、祖父がなんと応えたのか、よく覚えていない。

 ただ聞こえなかっただけかもしれない。

『もし司を引き取ってもらえるなら、あの子を女として育ててもらえないでしょうか? 松永家の人間でも、女だったら生きながらえる可能性があります。私がそうです。今でもこうして生きています。男はだめ……、男はみんな呪い殺されてしまう……。どうか司を、司を女として育ててください……!』


「結婚すれば、だって」

 居間の掘りごたつに、司がするりと滑り込んだ。寒かったのだろう。擦り合わせた手に息を吹きかけている。

「最近よく言われるよね、結婚」

 崇文もこたつの一角に収まり、一息ついた。

「そういう年頃になったんだよ、俺たちも」

 私はまだ二十七だと前置きをしてから、司が頬杖をついた。

「結婚なんて、するときゃするし、しないときはしないよ。年齢なんか関係ないのにね」

「俺もそう思う」

「それにさ、」

 さも可笑しげに、司が吹き出した。

「結婚するわけないじゃんね。私たち、男同士なんだから」

 どちらにしろ、司との結婚はありえない。

 司は、本当は、男なのだから。

「――万が一何かあった時のために、同性パートナーシップ制度を申請しておくか。隣の江戸川区が導入してる」

 あっはは、と弾けるように司が笑う。

「万が一の何かって何よ?」

「例えば、どちらかが交通事故に遭って大怪我をする、とか」

「お父さんとお母さんがすぐに知らせてくれるよ。それに、そのためだけに引っ越すの?」

 両手を天井に向かって突き上げ、伸びをしながら「やだよ、めんどくさ」と司が笑った。




稲荷の祟りを恐れる女(了)


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