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第9話 稲荷の祟りを恐れる女

「それで何をしようとしていたんです? 御霊抜きをしに行くんじゃないんですか? 神さまの前で、刃物はご法度ですよ?」

「うるさいうるさいうるさい!」

 恵は両手で包丁を握り、八の字を描くように牛刀を振り回した。手を振るたび、まとめていない黒髪が顔に降りかかる。天井からぶら下がる照明の紐スイッチが刃に当たり、カン、と音をたてて一回転した。それにすら神経を昂らせ奇声を上げる。

「早くしろ! 早くあの家に行くんだよ!」

 一気に近づいて足を払おうと思った。が、恵をここで転ばせたら、家具がひしめくこの部屋で、頭を打って大怪我を負いかねない。出鱈目な向きで包丁を構えているものだから、横から距離を詰めるのも難しそうだ。

「恵さん、落ち着いて」

 さて、どうやって恵を止めようか。

 しゅん、しゅん、と刃が空を切る音がする。畳を擦る、二人の足音。絶え間なくあがる恵の金切り声。

 ふと、すべての音が遠ざかった。

 空手の試合で相手と対峙する、張り詰めた空気が満ちた気がした。恐れや余計な感情が消え、感覚が研ぎ澄まされてゆく。

 視界には、自分の両手と恵の姿と、そしてなぜか、足元に脱ぎ捨ててある袈裟だけが映った。

 崇文は素早くそれを拾うと、恵に向かって投げつけた。頭から袈裟を被った恵が、一瞬動きを止める。

 一気に距離を詰め、恵の身体を押し倒す。恵の手から包丁が零れ落ちた。

「ぐっ、うぇ」

 苦し気なうめき声とともに、恵が激しく咳き込んだ。「げぇっ、ごほごほっ……」

(強く抑え過ぎたか)

 相手が女性だと力加減が難しい。それでなくとも恵は病的に細く、ほんの少しの力でも骨を折ってしまいそうだった。

 躊躇した瞬間、身体の下で恵ががむしゃらに暴れ出した。獣のような唸り声を上げながら崇文の身体から這い出し、再び牛刀に手を伸ばす。

(しまっ……)

 牛刀の柄に手がかかる。恵が身体を返し、素早く刃を振り上げる――


「崇文から離れろ!」

 司の声がしたと思った瞬間、恵が断末魔の叫びをあげた。

「ぎゃーっ」

「っつ」

 崇文の左肩にも激痛が走る。刃に触れてしまったかと思ったが、ややして熱く濡れた感触に気づいた。切り傷でなく、火傷だ。

「崇文!」

 司の声で我に返り、今度こそ一ミリの遠慮もなく恵を畳に押さえつけた。呻く恵の両手を背中で捩じり上げ、落ちていた格子で縛り上げる。

「崇文! 大丈夫?」

 まろぶ勢いで司が袖にしがみついてきた。司の手から、空になったタンブラーが落ちて畳の上を転がった。中身の熱々のコーヒーを恵に向かって放ったのだ。

「怪我は⁉」

「……」

 いつもの調子で「俺にもかかった」と文句を言おうと思った。が、司の目が赤くなっているのに気づいてやめた。

「怪我は、ない?」

 髪が乱れて、ひと房口に食んでいる。顎の先には、口から飛んだ唾がついていた。それでも、綺麗な顔だと思った。初めて見た時から、なんて綺麗な子だろうと、心を奪われたままだ。

 司の手もコーヒーで濡れていた。赤くなった司の手を取り、袖でそっと押さえた。

「俺は大丈夫。司こそ手にかかっただろう? 火傷してないか?」

「平気」

「仕事は?」

「昼休みで抜けてきた」

 ようやくアドレナリンが収まってきたのか、司は部屋をぐるりと見回した。崇文の身体を盾にして、縛り上げられた恵を見た。畳に転がる牛刀を見て溜息を吐き、「虫の知らせがあった」と呟く。

「朝からなんか嫌な感じがして……本当はすぐに様子を見に来たかったんだけど、なかなか店を抜けられなくて」

 背中にしがみついたまま、たどたどしくここに来た経緯を語る。服に食い込む指先が小刻みに震えていた。

「玄関を開けたらものすごい音がして……」

 語尾が震え、グスっと洟を啜っている。

「無事でよかった……」

「――助かった、ありがとう」

 司の震える手に、自分の手を重ねる。宥めるように、ぽんぽんと甲を撫でた。

「相手が女性だからって、油断すんな!」

「怪我させそうで怖かったんだ」

「変なところで優しいんだから! もう……。そういうところだよ!」

 どういうところだと、胸中で突っ込む。徐々に司の普段の調子が戻ってきてほっとした。

「……助かったけど、虫の知らせなんてもんは存在しないから。あれはもともと、不安を感じていた人間が『何か悪いことが起きるかも』って意識し過ぎて、なんでもないことでも悪い意味にこじつけるんだ。自ら、不幸探しをしているようなもんなんだよ。黒猫が目の前を横切ると不吉、なんて言うだろう? けどイギリスじゃあ、黒猫は幸運が舞い込む前兆なんて言われているんだぞ? お国によって意味が違うっておかしいだろ。それに、」

「そういうの、今はいいから!」

 ばちんと手を叩かれ、口を閉じた。囚われた罪人のように司の腕の中でじっとしていると、やがて背後で司が笑っている気配がした。崇文もひと心地ついて少し笑った。

「な? ないだろ?」

「何が?」

「祟りなんてないんだ」

 自分自身に言い聞かせるように繰り返す。

「祟りなんてない。怖いのは人間のほうだ」

「――うん」

 司がどんな顔をしているのか、こちらからは確かめられなかった。


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