目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第8話 稲荷の祟りを恐れる女

 その日も恵は長いこと祈り、居間でお茶を飲んだ。今日は司が不在なので、味気のないインスタントのコーヒーである。

「いよいよ明日ですね」

 崇文が切り出すと、恵は瞳を輝かせて大きく「ええ」と頷いた。

「これでようやく安心できます」

 それは良かった、と崇文も相槌を打った。

「ご家族さまに御霊抜きの話はされてますか? 反対はされませんでした?」

「いちおう話はしましたが、どうにも賛同は得られませんでした。誰も屋敷神のことなんか信じていないみたいで」

「……そうですか」

 恵は崇文の正面に回り込むと、手を取らんばかりの勢いで言った。

「でも! やったほうがいいに決まってます! ……ううん、やらなくちゃ!」

「――ええ」

「突然お寺のご住職が訪ねてきたら、家の者がびっくりするかもしれません。明日はここで待ち合わせて、一緒に向かいましょう!」

 つぶらな瞳が黒黒と煌めいていた。

「ええ、そうですね」

 崇文は静かに首肯した。

 約束の日、恵は本堂へは足を向けず、直接住居の方へやってきてインターホンを鳴らした。居間の窓からひっそりと様子を窺っていた崇文は、少し間を置いて、内側から扉を開く。

「こんにちは恵さん。お待ちしておりました」

「こんにちは」

 恵の表情は晴れ晴れとして明るく、いつになく声に張りがあった。いつも着ているグレーのコートとは違う真っ白なロングコートを着ており、胸元に散る髪の毛が一段と黒く見えた。左肩からは大きめのトートバッグを下げており、反対の手で、大事そうにバッグの口を押さえている。

「申し訳ありません。もう少し支度がかかりますので、中でお待ちいただけますか?」

「ええ、お邪魔します」

 恵はすっかり慣れた足取りで居間へ入り、いつも座る掘りごたつの一角に腰を下ろした。すぐに出発すると思ってか、コートを脱がず、肩に提げたバッグも床に下ろそうとしない。

 崇文は、廊下で身支度をする振りをしながら、「少々お待ちくださいね」と恵に声をかけた。

 念のため、家は無人の状態にしてある。

 両親にはそろって付き合いのある隣町の寺に出かけてもらった。土日はカフェが繁盛する為、司が仕事を抜けて、突然尋ねてくることもないだろう。

「ところで恵さん」

 廊下から、居間にいる恵に声をかけた。

「先日お話されていた義妹さんのお勤め先、その後いかがです?」

「ええ、やはり倒産しました」

 さして気に病む様子もなく、恵がほがらかに即答した。

 世間話を装って、もう一歩、話に踏み込んでみる。

「そうでしたか。それはそれは……。今はどこも不景気ですしね。大企業でも決して安心はできません。義妹さんがお勤めの会社も、有名企業でした? なんて会社です?」

「まぁ、そこそこ。テムコです。医療用器具の」

 間を置かず、恵がつるりと社名を口にする。

「――そうですか」

 疑惑が完全に核心へと変わる。

 恵の話は嘘だ。

 テムコは、大手の医療用器具メーカーだ。テレビCMなどはなく一般的にはあまり耳にしない社名だが、全国に支社を持つ、業界では老舗の優良企業だ。兄・幸仁ゆきひとが現在テムコの関西支社に勤務しており、崇文にとっては耳馴染のある社名だった。

 兄とは先週も電話で話したばかりだ。もちろん、倒産の話などまったく出ていない。

 今や、恵が嘘をついているかどうかではなく、恵の話の中にどれくらい真実があったのか、はじめから真実など一つもなかったのか、それだけが疑問だった。

「恵さん」

 藤田家を訪れるたびに在平橋交差点の広告看板を目にし、自然とテムコの社名が記憶に刻まれてしまったのだろう。志穂が本当にテムコに在籍しているのか、それとも無意識のうちに刻まれた会社名を口にしただけなのか――今となってはどちらでもよかった。

 崇文は動きの妨げになりそうな袈裟を脱ぎ捨て、居間に佇む恵に声をかけた。

「恵さん、あなた、藤田家とはどういったご関係です?」

 恵の背中から一時も目を離さず、静かに語りかけた。

 恵は、崇文を振り返ることなく、え? と訊き返してきた。異様に澄んで、高い声だった。

「どういった関係って? ずっと言っているじゃないですか、恭平さんと結婚するって」

「結婚のご予定はないのではないですか? 藤田家とはなんの関係もない……ただストーキングをしているだけではないのですか?」

「――ストーキング?」

 ゆっくりとした動作で首を捻り、恵が、顔だけをこちらに向けた。自分の話に夢中になってしまう時特有の、瞳孔が開いた黒黒とした目をしていた。

「ご住職さん、何をおっしゃっているの。可笑しい」

 静まり返った部屋に、ころころと笑う恵の軽やかな笑い声だけが響く。

「なんですか、ストーキングって」

「――もともと稲荷などないのでしょう? 御霊抜きと偽って、これから一緒に藤田家に向かい、何をするつもりだったんですか?」

 第三者を伴って藤田家に行くのが目的だったのだ。それらしい理由をつけ、隠れ蓑になりそうな第三者を探していた。御霊抜きでも、害虫駆除でも、押し売りのセールスでも、藤田家に侵入できる口実があればなんでもよかったのだ。

「何って、」

 さも不思議そうに恵が首を傾げた。

「御霊抜きですよ。お稲荷さんの怒りを鎮めなきゃ。そうすれば恭平さんも目を覚ますはずです。恭平さんは私と結婚するのが運命なんだから」

 ……ああ、おそらく志穂は、恭平の妹なんかではなく――。

「恭平さんはあの女にたぶらかされているんです。あの女……、あの志穂とかいう女……。もしかしたら狐が化けているのかもしれません。早く恭平さんを救ってあげないと。早く行きましょ?」

「――恵さん、一度鞄を下ろしていただけませんか?」

 恵は喋りながら、左肩に提げたトートバッグにずっと手を入れていた。手を入れたままゆっくりと立ち上がり、身体をこちらに向ける。穏やかな口調とは裏腹に、ほとんど瞬きをしない目が、真っ赤に血走っていた。

「早く行きましょうよ。いつまで支度がかかるんです?」

「鞄から手を出して、恵さん」

「早く! 早くしろ!」

 突然怒号を発し、恵が鞄を放り出した。利き手に二十センチメートルもあろうかという牛刀を握り締めている。鞄の中で確かめもせず柄を握っていたのだろう。刃が上を向いた状態だ。

(……これはまた、デカい包丁を持ってきたな)

 あの刃の向きのまま向かって来られたら流血必至だ。崇文は慎重に恵との距離を計った。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?