その日も恵は長いこと祈り、居間でお茶を飲んだ。今日は司が不在なので、味気のないインスタントのコーヒーである。
「いよいよ明日ですね」
崇文が切り出すと、恵は瞳を輝かせて大きく「ええ」と頷いた。
「これでようやく安心できます」
それは良かった、と崇文も相槌を打った。
「ご家族さまに御霊抜きの話はされてますか? 反対はされませんでした?」
「いちおう話はしましたが、どうにも賛同は得られませんでした。誰も屋敷神のことなんか信じていないみたいで」
「……そうですか」
恵は崇文の正面に回り込むと、手を取らんばかりの勢いで言った。
「でも! やったほうがいいに決まってます! ……ううん、やらなくちゃ!」
「――ええ」
「突然お寺のご住職が訪ねてきたら、家の者がびっくりするかもしれません。明日はここで待ち合わせて、一緒に向かいましょう!」
つぶらな瞳が黒黒と煌めいていた。
「ええ、そうですね」
崇文は静かに首肯した。
約束の日、恵は本堂へは足を向けず、直接住居の方へやってきてインターホンを鳴らした。居間の窓からひっそりと様子を窺っていた崇文は、少し間を置いて、内側から扉を開く。
「こんにちは恵さん。お待ちしておりました」
「こんにちは」
恵の表情は晴れ晴れとして明るく、いつになく声に張りがあった。いつも着ているグレーのコートとは違う真っ白なロングコートを着ており、胸元に散る髪の毛が一段と黒く見えた。左肩からは大きめのトートバッグを下げており、反対の手で、大事そうにバッグの口を押さえている。
「申し訳ありません。もう少し支度がかかりますので、中でお待ちいただけますか?」
「ええ、お邪魔します」
恵はすっかり慣れた足取りで居間へ入り、いつも座る掘りごたつの一角に腰を下ろした。すぐに出発すると思ってか、コートを脱がず、肩に提げたバッグも床に下ろそうとしない。
崇文は、廊下で身支度をする振りをしながら、「少々お待ちくださいね」と恵に声をかけた。
念のため、家は無人の状態にしてある。
両親にはそろって付き合いのある隣町の寺に出かけてもらった。土日はカフェが繁盛する為、司が仕事を抜けて、突然尋ねてくることもないだろう。
「ところで恵さん」
廊下から、居間にいる恵に声をかけた。
「先日お話されていた義妹さんのお勤め先、その後いかがです?」
「ええ、やはり倒産しました」
さして気に病む様子もなく、恵がほがらかに即答した。
世間話を装って、もう一歩、話に踏み込んでみる。
「そうでしたか。それはそれは……。今はどこも不景気ですしね。大企業でも決して安心はできません。義妹さんがお勤めの会社も、有名企業でした? なんて会社です?」
「まぁ、そこそこ。テムコです。医療用器具の」
間を置かず、恵がつるりと社名を口にする。
「――そうですか」
疑惑が完全に核心へと変わる。
恵の話は嘘だ。
テムコは、大手の医療用器具メーカーだ。テレビCMなどはなく一般的にはあまり耳にしない社名だが、全国に支社を持つ、業界では老舗の優良企業だ。兄・
兄とは先週も電話で話したばかりだ。もちろん、倒産の話などまったく出ていない。
今や、恵が嘘をついているかどうかではなく、恵の話の中にどれくらい真実があったのか、はじめから真実など一つもなかったのか、それだけが疑問だった。
「恵さん」
藤田家を訪れるたびに在平橋交差点の広告看板を目にし、自然とテムコの社名が記憶に刻まれてしまったのだろう。志穂が本当にテムコに在籍しているのか、それとも無意識のうちに刻まれた会社名を口にしただけなのか――今となってはどちらでもよかった。
崇文は動きの妨げになりそうな袈裟を脱ぎ捨て、居間に佇む恵に声をかけた。
「恵さん、あなた、藤田家とはどういったご関係です?」
恵の背中から一時も目を離さず、静かに語りかけた。
恵は、崇文を振り返ることなく、え? と訊き返してきた。異様に澄んで、高い声だった。
「どういった関係って? ずっと言っているじゃないですか、恭平さんと結婚するって」
「結婚のご予定はないのではないですか? 藤田家とはなんの関係もない……ただストーキングをしているだけではないのですか?」
「――ストーキング?」
ゆっくりとした動作で首を捻り、恵が、顔だけをこちらに向けた。自分の話に夢中になってしまう時特有の、瞳孔が開いた黒黒とした目をしていた。
「ご住職さん、何をおっしゃっているの。可笑しい」
静まり返った部屋に、ころころと笑う恵の軽やかな笑い声だけが響く。
「なんですか、ストーキングって」
「――もともと稲荷などないのでしょう? 御霊抜きと偽って、これから一緒に藤田家に向かい、何をするつもりだったんですか?」
第三者を伴って藤田家に行くのが目的だったのだ。それらしい理由をつけ、隠れ蓑になりそうな第三者を探していた。御霊抜きでも、害虫駆除でも、押し売りのセールスでも、藤田家に侵入できる口実があればなんでもよかったのだ。
「何って、」
さも不思議そうに恵が首を傾げた。
「御霊抜きですよ。お稲荷さんの怒りを鎮めなきゃ。そうすれば恭平さんも目を覚ますはずです。恭平さんは私と結婚するのが運命なんだから」
……ああ、おそらく志穂は、恭平の妹なんかではなく――。
「恭平さんはあの女にたぶらかされているんです。あの女……、あの志穂とかいう女……。もしかしたら狐が化けているのかもしれません。早く恭平さんを救ってあげないと。早く行きましょ?」
「――恵さん、一度鞄を下ろしていただけませんか?」
恵は喋りながら、左肩に提げたトートバッグにずっと手を入れていた。手を入れたままゆっくりと立ち上がり、身体をこちらに向ける。穏やかな口調とは裏腹に、ほとんど瞬きをしない目が、真っ赤に血走っていた。
「早く行きましょうよ。いつまで支度がかかるんです?」
「鞄から手を出して、恵さん」
「早く! 早くしろ!」
突然怒号を発し、恵が鞄を放り出した。利き手に二十センチメートルもあろうかという牛刀を握り締めている。鞄の中で確かめもせず柄を握っていたのだろう。刃が上を向いた状態だ。
(……これはまた、デカい包丁を持ってきたな)
あの刃の向きのまま向かって来られたら流血必至だ。崇文は慎重に恵との距離を計った。