チラシには『オープン十周年キャンペーン コーヒー1杯無料サービス カフェ・コバルト』と書かれている。中央にマグカップのイラスト、下部には店の詳細情報が印刷されている。シンプルな構図だが、文字は手書きのように掠れたデザインになっていてなかなか凝っている。「カフェ・コバルト」とは、司が勤務している喫茶店だ。
「ほんとは十周年にはまだ半年早いんだけど」
先日、藤田家を見たときの違和感がどうしても拭いきれず、司の目にはどう映るか、藤田家を偵察するよう依頼していた。手ぶらでうろついては怪しまれるだろうと思い、カフェのオープン十周年のチラシ配りを装ってもらったのだ。
「半年だったら許容範囲だろう」
「何を勝手な。店長には無理言って協力してもらったんだから。本当に藤田家の方がいらしたら、
「……そうだよな。この件が落ち着いたら、お礼を言いに行く」
恵の話だけを鵜呑み子からして、御霊抜きの件を義理の家族に話していない可能性もある。それに、この前藤田家を見に行ったときの、父親の落ち着きのない素振りもずっと気になっていた。
「で、どうだった?」
司から見て藤田家がどんな感じか、あわよくば、ほんの一言二言でもいいから藤田家の人間と実際に話をしてみてほしいと頼んであった。
「古いけど大きい家だね。周りの家より敷地が広かった」
「俺もそう思った。門は開いてた?」
「閉まってた」
どうやら藤田家は、一日中門を閉ざしている家のようだ。
「三時くらいからうろついて、藤田家のお母さんが出てこないか粘ってみたんだ。夕飯の買い出しに出る時間帯だと思って」
「出てきたか?」
「もっと前に外出してたみたい。お母さんと義理の妹さん……志穂さん? が、ちょうど帰ってきたところに遭遇した」
あれが噂の志穂さんだと思う、と司は思い出すように遠くを見た。
「どうだった?」
勢い込んで訊くと、司はちょっと待て、と手で制してきた。
くっきりとした二重の瞳をすっと目を細め、不満げに頬を膨らませる。
「大変だったんだからね。不審者だと思われないように、わざわざ店のエプロンつけて行ったり、急ごしらえで偽のチラシ作ったりして」
チラシは司のお手製である。さらにこの寒空の下、藤田家の人間が出てくる時間を見計らって外をうろついていたと思うと、さすがに労いが足りなかったと反省した。
わかった、と崇文は仰々しく頷いた。
「
「やなぎ屋のうなぎも」
「ここぞとばかりに高い店ばかり……わかったよ」
もう一軒、地元で評判の焼き鳥屋での食事の約束も取り付けると、ようやく司は続きを話し始めた。
「ばったり出くわした風を装って、『三丁目にあるカフェです。オープン十周年の無料券をお配りしています』って手渡したんだ」
「よくやった」
髪を撫でまわすと、司は鬱陶しそうに頭を仰け反らせた。
こういった時、司の容姿はとても役に立つ。清潔感があって美しく、老若男女、誰からも嫌われない。やや整い過ぎている感はあるが、過度な女っぽさがないため、同性に反感を買うこともない。
「どんな人だった?」
「お母さんの方は反応薄かったんだけど、志穂さんがね……」
「やっぱりきつい感じか」
「ううん」
司は、
「それがね、迷惑がるっていうより、怖がってる感じがした。怯えてるっていうか……。私がチラシを手渡そうとしたら、お母さんの前に立ち塞がって、まるで身を挺してお母さんを守ってるみたいだった」
私、そんなに怖く見える? と司が首を傾げる。
「チラシの文字が見えるように表にして『カフェの十周年記念キャンペーンなんです。ぜひいらしてください』って言ったら、二人ともあからさまにほっとした顔してた」
チラシを受け取ると、二人は逃げるようにして玄関へと向かって行ったと言う。
「そのとき、志穂さんがお母さんに言っているのが聞こえたんだ。『あの女が現れてから、ちっとも気が休まらない』って」
「……」
あの女――。
いや、それよりも。
「恵さんが言うような気の強い人には見えなかったんだけど、義理のお姉さんを『あの女』呼ばわりするなんて、やっぱりちょっときつい感じだよね」
恵を気の毒に思ってか、司が悲し気に眉を下げる。
買い物袋を提げて、母親を庇う志穂の姿を思い描く。
「……ずいぶんと仲がいいんだな」
頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、司が目を瞬かせた。
「誰と、誰が?」
「志穂さんとお母さんだよ。成人した娘が母親と一緒に買い物に行くなんて、ずいぶんと仲のいい親子だと思わないか?」
「二人とも両手いっぱいに荷物持ってたから、買い溜めしたんじゃないかな。たぶん志穂さん、お母さんに駆り出されたんだよ」
……平日の昼間に? 仕事は? 志穂の勤め先はもう倒産していて、すでに休職状態で一日中、家にいるとでも言うのだろうか。
――そして、先日、藤田家を見たときの違和感の正体に、ようやく気づいた。
「なあ。買い溜めだったら、どうして車で行かないんだ?」
「あ、」
そうだよね、と司が親指で下唇を擦った。色素の薄い唇がぐにゃりと潰れる。口元をいじるのは司の考え込むときの癖だ。
「司。二人が玄関に向かって行くとき、敷地内見えたか?」
「うん。一瞬ちらっとだけ」
「志穂さんの車、あったか? 車がなくても、稲荷を撤去して造ったっていう、駐車スペースはあったか?」
「……あれ……? なかった」
司が呆然と呟く。
「玄関まで、敷石のアプローチが続いているだけだった」
そう、車が出入りするには、あの門は狭すぎるのだ。間口が二メートルにも満たず、志穂の車が軽自動車だとしても、出し入れするのが困難だ。一見して、車を所有している家には見えなかった。
今頃気付くなんて、自分の鈍さに歯痒くなる。
「『あの女が現れてから気が休まらない』って言ったんだな? 志穂さんは」
「うん」
あの女という呼び方は置いておいて、「現れてから」。
新しい家族がやってきたのなら、「うちに来てから」とか、「引っ越してきてから」と言うものではないか?
――俺たちは、はじめから、大きな思い違いをしていたのかもしれない。