初めて言葉を交わした日から、恵は三日とあけずに長栄寺に来ていた。いつも閉門間際に来て、長く、長く祈る。声をかけると居間でお茶を飲み、最初の頃よりもだいぶ滑らかな口調で義理の家族の不満を語るようになった。状況は特に変わらず、恵自身の気持ちも、納まりがついていない様子だった。
「御霊抜き、しましょうか。ご本体がなくなっていても問題ありません」
三度目の訪問でこちらから提案すると、恵は即座に顔を輝かせた。決して安くはない料金の儀式なので控えめに言ったのだが、すべてを言い終わらないうちに言葉を被せてきた。
「やっていただけますか? わあ、よかった! これでようやく安心できます」
無邪気に両手を叩いて喜び、いつ? と身を乗り出してくる。
「いつ行きます? これから?」
手を取らんばかりの勢いで身を乗りだしてきたので、崇文はわずかに身を引いた。
「――そうですね、恵さんのお仕事やご家族さまの都合もあるでしょうから、来週の週末はいかがでしょう?」
「わかりました。家族の都合も聞いておきますね。でも、できれば早いほうがいいです」
恵は、早く早くと、落ち着かない様子だった。
「裏の庭に台座がまだあるとおっしゃっていましたね? 台座だけでも整えておいていただけると助かるのですが」
恵は待ちきれないといった様子で何度も頷いた。
「わかりました」
御霊抜きの提案で安心して帰るかと思ったが、恵はすぐには腰を上げず、そういえば、と話題を変えた。
「志穂さんの勤め先が倒産するそうなんです」
「――そうですか」
「また私のせいだと言われそう」
父親の事故に空き巣被害、さらに義妹の勤め先の倒産ときた……。ここまで不運が続くと、さすがに厄年か何かかと疑りたくもなってくる。しかし、あくまでもツキのないだけの話だが。
「まあ、近頃は大手企業の倒産も珍しくはなく……」
この前、司に冷たいと言われたばかりなのを思い出し、慌てて語尾を濁す。
「……珍しい話ではないですが、それは大変ですね」
「ええ」
恵は神妙に頷き、それから眉間に皺を寄せた。
「志穂さん、ますます怒りっぽくなっちゃって」
志穂から言われたひどいセリフ、冷たい仕打ちを、つらつらと話し始めた。崇文はインスタントコーヒーを啜りながら、辛抱強く頷き続けた。
「お気持ちは、わかります……」
初めて恵と会ったとき、確かに心から稲荷の祟りに怯え、ひどく悲しんでいるのが伝わってきた。信心深い娘なのだと思った。
しかし近頃の恵は、義理の家族の不満を延々と口にするばかりで、稲荷の祟りなどすっかり忘れているようだった。けれど御霊抜きの話をすれば、こちらを急き立てるほど喜んでみせる。いったい、何を恐れているのか、何を解決してほしいのか、近頃はよくわからなくなっていた。
稲荷の御霊抜きをすれば、今、頭を悩ませている義理家族との軋轢が、すべて収まると本気で考えているのだろうか。
そして泣くほど結婚を悩んでいたにもかかわらず、恵の口から、一度も夫となる恋人の話を聞いたことがないのが妙だった。
「旦那さまは?」
尋ねると、恵はきょとんとした顔で崇文を見返してきた。
「はい?」
「いえ、恵さんがお辛い状況にあるとき、パートナー、……ご長男はどうしておられるんですか?」
束の間、ぼんやりとしていた恵のつぶらな目に、異様な光が灯った。
「
男の名は「恭平」というのか、とぼんやり思った。初めて恵の口から、恋人の名が出た。
「――なるほど」
「デートをしている時も、行きたい場所もやりたいことも、全部私の好きなところでいいって」
頬を赤らめて恵が嬉しそうに語る。
「結婚式のことも全部そんな感じです。ドレスも会場もぜーんぶ、私の好きなものを優先するって。あ! そうそう、プロポーズのときなんか――」
話が脱線した、と思ったが、勢いづいた恵を遮ることができなかった。恵は、話に夢中になるとまわりが見えなくなることが、ままあった。
はじめは気弱そうに見えたのだが、会うたびに恵の印象は変わる。一点を見つめて夢中で話す様子はどこか危うく、恵の中には、繊細さと激情が背中合わせで存在しているようだった。
「優しい男性なんですね」
「ええ! 本当に」
恵の口から語られる恋人・藤田恭平は、どこか架空の人物のように思えた。初々しい恋の始まりや優しい性格のエピソードが語られるばかりで、今、この義理の家族とこじれた状況下を共に過ごしている人間とは到底思えないのだ。
(優しい恋人がそばにいるのだったら、うちになんか来ずに恋人に相談すればいいものを)
やはり、稲荷の祟りを信じていて、どうにかしたくて寺へ来たのだろうか。
それとも、妻と妹との板挟みにさせては可哀そうだと、恵の思いやりだろうか。
「御霊抜きをすれば、きっと恭平さんも目を覚ますはずです」
「……」
目を覚ます、とは。
恋は盲目だとでも言うのだろうか。では、目を覚まされて、我に返られては困るのではないだろうか……。
今でもお堂に向かって長く手を合わせているのは、いったい、何を祈っているのだろう――。
自室のドアが、コン、と小さく一度だけノックされた。
枕元の時計を見ると、いつの間にか二十二時を過ぎていた。通夜で訪れた先で酒を振る舞われ、帰宅してベッドに倒れ込んだら、そのまま身体を起こせなくなった。崇文はベッドに横になったまま、ドアに向かって応えた。
「起きてるよ」
細くドアが開き、司が覗き込むように顔を出す。音を立てないようにするりと部屋に入ってきて、後ろ手にドアを閉めた。階下では、すでに両親が寝静まっている。
「今、仕事帰りか? 遅いな」
「店で店長の友達の誕生日会があって、さっきようやく片付いたとこ」
はあ、という大きな溜息とともに、司の定位置である窓際のソファに、勢いよく腰を下ろした。黒いハイネックのセーター越しにうなじを押さえ、オヤジ臭い仕草で首をぐるぐると回している。司も、相当疲れているようだ。
「崇文もまだ着替えてないね。今日忙しかったんだ?」
「法要が四件あった後、夕方から通夜」
「うわー」
「そこで結構飲まされた。あー……だる」
「その顔で下戸ってのが笑えるよね。いかにもお酒飲めそうな顔してるのに」
「顔は関係ないだろ。うちはみんな、アルコール分解が遅い体質なんだ」
基本的に週末は法要が多いものだが、今日は通夜の予定も入っていて長丁場だった。朝から休む間もなく、食事も移動中の車内でおにぎりを二つほど食べたきりだ。すきっ腹に飲まされたのもよくなかった。
横になったままでいると、司がソファから立ち上がり、ベッドのそばに座り直した。
「疲れてる? 藤田家に行った報告、明日にする?」
と覗き込んできたので、疲労困憊なのも忘れて勢いよく身体を起こした。
「いや、今聞く」
どうだった、と隣に座ると、司は得意げな笑顔を向けてきた。
「ミッション完了! 藤田家のお母さんと志穂さんに会ったよ」
そう言って、ポケットから、くしゃくしゃになった一枚のチラシを取り出した。