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第5話 稲荷の祟りを恐れる女

 玄関を開けた瞬間、温かい出汁の香りが漂ってきた。三和土たたきの隅に、いつも司が履いている白いコンバースを見つけ、崇文はパーカのポケットの中で小さく拳を握った。

「司? 来てくれたんだ」

 手を洗ってダイニングへ入ると、食卓には湯気を吹く大きな土鍋が置かれていた。父と、今日は顔色の良い母親もすでに席に着いている。司が人数分の小皿を並べているところだった。

「おかえり、崇文。ずいぶん、走っていたのね」

 たどたどしい口調で、母親が崇文を振り仰いだ。病気をしてから右半身が動かなくなり、話す口の動きもぎこちない。

「遅くなってごめん。ちょっと寄るところがあったんだ」

 配膳する司を手伝い、礼を述べる。

「司、作りにきてくれてありがとう」

「今日は海鮮鍋。お母さんと一緒に作ったんだよ」

 ね、と司が母親に微笑みかける。

「もう、だめね。お野菜を、切るのにも、うまくいかなくて、すごく、時間がかかる」

 口ではだめと言いながら、母の表情は明るくいつもより凛としていた。司が来ると気持ちに張りが生まれるようだ。しゃんと背筋を伸ばし、灰汁あくを入れる器を準備するよう、司に細々と指示を出している。


 司は高校の卒業式を終えると、すぐに安アパートを見つけてきて、両親に家を出ると宣言した。三峰家から通学可能な大学に進学が決まっていたにもかかわらず、だ。これまで通り三峰家から通えばいいと両親がいくら説得しても、司はがんとして首を縦に振らなかった。早々に家を出たがる司の様子を見て、当時やるせない気持ちになったのを覚えている。


 俺たち、家族じゃないか。今さら、遠慮したり気を使ったりする間柄じゃないだろう? そう思っていたのは自分らだけだったのだろうか。

 それに長栄寺うちにいた方が、お前にとっても――


「白菜が消えちまう。早く食べよう」

 せっかちな父が、張り切って鍋の蓋に手をかける。蓋を外した途端、真っ白い湯気が立ち昇り、父の眼鏡が曇った。その様子を見て母と司が笑う。

 血が繋がっていなくとも、司はうちの人間だ。今ここにはいない上の兄と、自分と、司とで、三人兄妹だ。成人して、それぞれの仕事の都合で離れて暮らしていても、司が家族であることに変わりはない。

 毎日一日の終わりに、心の中で繰り返し考える。自分に言い聞かせるように。司に言い聞かせるように。

 ――ここにはいない、誰かに聞かせるように。



 司は、五歳の時、見知らぬ女性に手を引かれて我が家にやってきた。当時崇文は七歳、小学校二年生だった。

 二人は母娘おやこ――には見えなかった。女性は、司の母親にしては、年を取り過ぎていた。母というより、祖母と言えるくらい年嵩の女性で、繋がれた司の手は、緊張で五指が伸びきっていた。女性と司が初対面同然であるのが、一目瞭然だった。

「ここのお寺の子? 申し訳ないけれど、隆善りゅうぜんさんを呼んできてくださる?」

 崇文を見つけると、女性は親し気に祖父の名を口にした。小学生の崇文に対しても丁寧な物腰だったが、優しい口調の中に、何か切羽詰まったものが滲んでいた。

 祖父は二人を家に招き入れると、女性と長いこと仏間で話し込んでいた。襖越しに耳をそばだてると、ぼそぼそと、二人が声を潜めて話しているのが聞こえてきた。女性が「どうか、どうか司だけは」と祖父に懇願するのが聞こえ、あの少女は「司」という名なのだとわかった。

 祖父と女性が話し込んでいる間、司は居間で、置物のように座っていた。母が出すジュースやお菓子に目もくれず、ただぼんやりと窓の外を見つめていた。

 話しかけても返事がなく、初めは、耳が聞こえないのかと思った。

 会話もできないので、ただじっと、整った横顔を眺めているしかなかった。まろやかな白い頬が西日に照らされていた。一言も喋らず、身動きもせず……。顔の造りが整っていたこともあって、人形のようだと思ったのを覚えている――。

 気づくと女性は、司を置いて、一人で帰ってしまっていた。

 聞けば、司の家族が交通事故で亡くなり、先ほどの女性――司の祖母が、遠縁にあたる三峰家で育ててほしいと頼みに来たそうだ。

 こんな幼い女の子が天涯孤独だなんて――。

 しかも実の祖母に置いていかれてしまうなんて。祖母はなぜ、自分が一緒に暮らしてやろうとは考えなかったのだろう。幼心に司がかわいそうだと思った。

 自分が守ってやらねば。

 初めてできた、自分よりも小さく頼りない存在に、崇文は心の中で固く誓った。

 自分が、司を守ってやらねば。

 それから司は、我が家で暮らすようになった。司が高校を卒業するまでの十三年間、本物の兄妹のようにして育った。


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