目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第4話 稲荷の祟りを恐れる女

 翌日、崇文は一日のお勤めを終えると、閉門の作業を父に頼んでトレーニングウエアに着替えた。

 空手を始めた中学の頃から、風邪の日以外は一日も欠かさずジョギングを続けている。どんなに疲れている日でも、ひとっ走りしないと今ひとつ寝付きが悪いのだ。今日は夕方のうちに走りに出て、まだ日のあるうちに、恵の嫁ぎ先である藤田家の様子を見てみようと思っていた。


 昨日は、祟りなどないから心配いらない、と恵を帰したが、胸のすみに何かが引っかかっていた。その違和感を確かめるため、一度藤田家を確かめてみようと思った。

 山門を出ると、フードを目深にかぶり、駅へと向かう道をゆっくりと走り始めた。

 時刻は十七時過ぎ。勤め先から帰ってくる人々とすれ違う。退勤のピークにはまだ早く、帰途につく人の流れはまだまばらだ。

 住宅街の家々からは、夕食の支度の温かい匂いが漂ってきていた。

(今日のメシは親父の当番か)

 一年前に母親が倒れてから、夕飯の支度は、崇文と父との交代制になった。父の作る料理――料理と言っていいのか――は切ったトマトや冷奴、買ってきた刺身などの火を使わないものが多く、寒くなってきたこの時期には少々味気なかった。僧侶らしい食事だと言われればそれまでだが、どうしても温かい汁物などが恋しくなる。

(司が作りにきてくれないかな)

 甘えてばかりではいけないと思いつつ、料理上手な司が、仕事帰りにうちに寄ってくれるのを期待せずにはいられなかった。

 母は、司が小学校高学年になると、料理の手伝いをさせるようになった。

 そろって学校から帰ると、司だけが呼ばれ、夕食の準備を手伝わされる。放課後は司と遊ぶのが常だった崇文は、早く司が解放されるようにと、母と司との間に並び立った。

 だが、母は崇文だけを台所から追いやり、夕食が完成するまで司を解放しなかった。司は女の子だから、これから料理を学ばなくてはいけないと言う。

 父と結婚して約四十年、母は専業主婦として父に尽くしてきた。日々の家事に加え、法事や寺での催し事となると、ひと時も休むことなく立ち働き続けた。そんな母だったから、司にも自分と同じように、夫を支える女性になって欲しいと望んだのだろう。

 司は母のいいつけに従順に従った。おかげで司の料理の腕はめきめきと上達し、中学に上がる頃には、一通りの家庭料理を作れるようになっていた。


 司に連絡しようかと迷ううちに、在平橋の交差点に差し掛かっていた。藤田家はこの交差点を渡った先にある。

 信号待ちをしていると、向かいのビルの広告看板が目に入ってきた。

 画角いっぱいの青空の写真。中央には白い鳩が羽ばたき、その鳩を潰すように、大きな緑色の文字で医療用器具メーカー、テムコの社名が入っていた。兄が就職した会社だ。

(まさか寺の跡を継ぐのが自分になるとはな)

 幼い頃は、寺を継いで僧侶になろうとは露ほども考えていなかった。長栄寺は、兄が継ぐものだと思っていた。

(僧侶になったのを、後悔したことはないけれど――)

 信号が青になり、崇文は再び走り出した。

 交差点を渡るとすぐに在平橋郵便局が現れ、そのはす向かいに目的の藤田家があった。

 藤田家の敷地はコンクリートのブロック塀にぐるりと囲まれ、正面の門扉は、すでにぴったりと閉ざされていた。しかし表札の「藤田」という文字は確認できた。

(立派な家だな)

 聞いていた通りの古い家だ。だが、思っていたよりも大きい。やはり敷地内に屋敷神を祀るくらいだから、地主か旧家なのだろう。

 門から玄関までの距離があり、両隣の家々より一段奥に家屋がある。引き戸タイプの門扉は背が高く、飛び跳ねでもしない限り、中の様子は覗けそうになかった。

(何も見えないな)

 塀に手をかけ、懸垂の要領で中を覗くのはそう難しくはないが、不審者だと思われそうでやめておいた。

 門の前をゆっくりと通り過ぎる。砂ぼこり一つ付いていないアルミの門扉や、綺麗に磨かれた郵便受けなどを見ると、家の者が丁寧に手入れをして暮らしている様子が伝わってきた。

 崇文は一旦藤田家の前を通り過ぎると、周辺を一周し、今度は道を渡って向かいの郵便局の前から藤田家を観察した。

 二階部分は暗く、人の居る気配はない。一階部分は、高い塀のせいでほとんど見えず、窓からわずかに漏れる灯りで庭の植栽が照らされているのがわかるだけだ。

 当然ながら、稲荷の怨念を感じたりもしない。

(何しにきたんだ、俺は)

 いったい何を確かめにきたのだと我に返りかけたとき、曲がり角から、藤田家に向かって来る初老の男性が現れた。

 首に真っ白いコルセットを巻いている。恵が話していた、事故を起こしてしまった義理の父親だろう。父親はしきりに周囲を警戒し、門扉を細く開けると、素早い動きで内へと身を滑り込ませた。

 落ち着きのない父親の様子に、崇文は短い襟足をがりがりと掻いた。

(まさか、父親まで稲荷の祟りを信じ込んでいるんじゃないだろうな)

 この世に祟りなんか存在しない。僧侶の自分が言うのだから信じろと、後ろから追いかけて老齢の男に言い聞かせたい気分だった。

 それから十分ほど藤田家を観察していたが、他に誰かが出入りする気配はなかった。崇文は長栄寺へと踵を返した。

 トレーニングウエアで立ち止まっていたので、すっかり身体が冷え切っている。足を踏み出すたびに、つま先がじんと痺れ、凍えた足先に血が通ってゆくのがわかった。

 走りながら、今見た古く温かみのある藤田家を思い返す。

 あの家の中に、今日は恵はいたのだろうか。まだ荷物を運び入れただけで、本格的に移り住んではいないのだろうか。

 中に恵がいる様子を想像してみた。が、どうしてかうまくいかず、胸になんとも言えない違和感だけが残った。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?