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第2話 稲荷の祟りを恐れる女

 長栄寺ちょうえいじは、墨田区と台東区のちょうど境目に位置する、小さな寺だ。

 小規模ではあるが歴史は古く、室町時代から続く日蓮宗の寺である。はじまりは小さな草庵であったと記録にあり、残念ながら、過去の偉大な僧侶や歴史的人物とは縁のゆかりもないようだ。だが、ありがたいことに周囲の市民に親しまれ、細々とではあるが今だ存続している。いわゆる市民に支えられている寺だ。

 崇文は、ここ長栄寺の住職の子として育ち、数年前に寺を継いだ。

 本堂の隣にある住居部分に、両親と住んでいる。二つ歳上の兄がいるのだが、兄は寺を継がず、大学進学と共に家を出た。現在は関西に住んでいる。

 住居部分はいたって一般的な造りの戸建てで、一階部分には台所、居間、風呂やトイレといった水回りと両親の寝室があり、二階には崇文と兄の部屋があった。


「こちらへどうぞ」

 崇文は玄関を入ると、右手にある居間に女性を通した。来客の多い三峰家では、一階の居間を応接室として使っていた。居間の大きな掃き出し窓からは、庭の植栽越しに本堂が見える。

「二人とも座ってて。私、コーヒー淹れるから」

 およそ十年前までここで生活していた司は、慣れた様子でキッチンへと向かって行った。

 現在は近くのアパートで独り暮らしをしている司だが、高校卒業までは、この三峰家で育った。幼い頃に事故で家族を亡くし、遠縁にあたる三峰家で預かることになったのだ。司の生まれは東京ではなく、千葉だと聞いている。

 職業がカフェの店員だけあり、司は、たとえスーパーの安売りの豆であっても、そこそこうまくコーヒーを淹れる。すぐにかぐわしい香りが漂ってきた。

 崇文は女性の向かいに腰を下ろすと、生真面目に頭を下げた。

「長栄寺の住職をしております、三峰崇文と申します。先ほどは驚かせてしまい、すみませんでした」

「いえ……」

 女性は束の間俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。

本庄恵ほんじょうめぐみと申します。突然こんな、お宅にまでお邪魔してしまいすみません」

 恵は、さっきまでの興奮が冷め、すっかり恐縮した様子だった。

「お気になさらず。うちはよくお客が来る家だから」

 実際、来客の多い家だ。

 葬儀や供養の相談に、頻繁に檀家の人間が尋ねて来るし、隣人や古くからの付き合いの連中が、しょっちゅう世間話をしに来る。さらには家に幽霊が出るだとか、心霊現象に悩まされているだとか、オカルト的な相談をしに来る者も少なくない。家の者はそうした訪問者にすっかり慣れ、敷地内に見知らぬ人間がいても驚かなくなっていた。

「お家の方たちは……?」

 屋内はしんと静まり返っているが、廊下を挟んで向かい側の両親の寝室には、母親が寝ている。

「奥で母が寝ています。父は近所の会合に」

 母は昨年、脳卒中を起こし、命に別状はなかったものの右半身に麻痺が残った。それからは、一日の大半をベッドで過ごすようになった。

 母の介護のため、父は早々に住職を引退し、今は副住職として崇文をサポートしてくれている。

『お母さん、お茶を淹れました』

 扉越しに母と話す司の声が、かすかに聞こえてくる。

 恵が落ち着いた頃合いを見計らい、崇文は世間話のように切り出した。


「――それで、結婚をされるんですか?」

「結婚」という単語を聞いた途端、手持無沙汰に掘りごたつの掛布団をいじくっていた恵が肩を強張らせた。

「……はい、同じ職場の男性と。彼はこの近くの、在平橋ありひらばしに家族と住んでいます。結婚したら、実家で両親と一緒に暮らしてほしいと言われているんです」

 ……すでにトラブルの臭いがしている。

 どんな事情があってかは知らないが、結婚と同時に妻を自分の生家へ招き入れようとは、ずいぶんと危機管理能力の低い男だ。崇文は、眉間に皺が寄らぬよう、顔に力を入れながら先を促した。

「私は、彼の実家に入ることにまったく抵抗はなく、承諾してすぐにご挨拶に行きました。お義父さんもお義母さんも、すごく温かく迎えてくださりました。少し年季の入ったおうちでしたが、きれいに手入れをされていて、庭には小さなお稲荷さんのほこらがあって、雰囲気が秋田の実家とそっくりでした。すぐに馴染めそうだと、安心しました」

 俯きがちに頬を染める姿は幸せそのもので、崇文は黙って頷いた。意外にも、義理の両親との邂逅には、なにも問題はなかったようだ。

 司が、コーヒーを乗せた盆を手にやってきて、「ご結婚おめでとうございます」と祝いを述べた。

「ありがとうございます」と、恵が目を細める。

「彼の妹も、その家に同居しています。数年前に結婚して家を出ていたんですが、つい最近、離婚して戻ってきたようです」

「そりゃ大変だ」

 誰に対する「大変だ」なのか、司が軽い調子で呟くと、恵が暗い表情で頷いた。

「彼の妹、志穂しほさんは、いろいろと大変な目に遭ったせいか、きつい性格をしているんです。特に私には当たりが強くて……。とにかく、志穂さんにだけは歓迎されていないのだと、はっきりと伝わってきました」

 姑問題ではなく、小姑問題だったかと、崇文は溜息を飲み込んだ。

 恵はそこで言葉を切ると、またもじもじとこたつ布団をいじくり始めた。辛抱強く待っていても話し出す気配がなく、崇文は俯く恵の顔をそっと覗き込んだ。

「……結婚を躊躇うほど、なにか嫌がらせでも?」

「そう、嫌がらせを!」

 恵は勢いよく首肯し、すぐに取り繕うように打ち消した。

「あ、いえ、そうではなくて……」

 眉根を寄せ、やや口調を速めて話し始めた。

「彼のご実家に少しずつ荷物を運び入れているときに、庭にあったお稲荷さんがなくなっているのに気づいたんです。台座ごとなくなっていて、コンクリートで均された駐車スペースに変わっていました。志穂さんの車用です」

 志穂さんの車を駐めるために、お稲荷さんを捨ててしまったらしいんです、と恵は眉を下げた。

「お稲荷さんのことをお義母さんに訊いたら、お義父さんが処分したって言うんです。木の祠はばらして資源ごみの日に出して、台座はまだ裏の庭に転がしてあるって……。ちゃんと供養はしたのかと聞いたら、首を傾げて、ろくに御霊抜みたまぬきもしていない様子でした」

 恵は、何かよくないものから自身を守るように、両手で自分の身体を掻き抱いた。

「信じられない。ごみの日に出すなんて」


 昨今、自宅にある古い祠を持て余している家は多い。

 何を祀っているのかわからない、なんだか薄気味悪い――。建て替えやリフォームの際に綺麗にしてしまいたいと、長栄寺でも、よく処理を請け負っている。その際には「御霊抜き」といって、神さまの魂を抜いて通常の置物に戻すという儀式を執り行う。

 しかし御霊抜きなど行わず、自分たちの手で祠を処分してしまう者も少なくない。信仰を持たない者にとって、敷地内の謎の置物など邪魔でしかなく、ましてや、その不要な物の撤去に、お金をかけようなどとは考えない。

「ただ壊しちゃうのは、よくないよね」

 しみじみとした司の一言に、恵が「そうなんです!」と声を張り上げた。あまりの大声に、思わず司と目を見合わせる。今までの恵の、ためらいがちに喋るか細い声からは想像できないほどの、腹からの太い声だった。

「そんな罰当ばちあたりなことしたのに、彼の家族ったらみんなあっけらかんとしているんです! 志穂さんなんか『お稲荷さんって、さん付けで呼ぶなんて、やっぱり田舎のひとは信心深いのね』なんて嫌味を言ったりして!」

 志穂は、秋田出身の恵を、ことあるごとに田舎者扱いするらしい。

「――それからです。彼の実家、藤田家でよくない事が起こり始めたのは」


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