ずいぶんと長い時間、祈っている。
ひと気のない境内に、一人、本堂に向かって手を合わせる女性がいた。もう二十分はたっているだろうか、同じ姿勢のまま微動だにしない。
ほっそりとした体形の女性だ。合掌した手を鼻先に押しつけ、折れそうなほど
まっすぐな黒髪が簾のように垂れ下がり、女性の横顔を隠していた。手入れの行き届いた黒髪なのだが、鬼気迫る祈り姿のせいか、合掌した手指の病的な細さのせいか、どことなく薄気味悪く見えた。
(いけない)
熱心に祈る女性に対して失礼ではないか。
崇文はおろそかになっていた手元に視線を戻した。
落ち葉を掃き終え、閉門の時間が迫っても、女性はまだ祈っていた。
風に吹かれて黒髪が揺れ、青白い横顔がかすかに覗く。眉根を寄せ、硬く瞳を閉じて祈っている。あまりにも真剣な姿に、閉門を告げるのが憚られた。
(いったい、なにをそんなに……)
箒を片付けようと横を過ぎると、砂利を踏みしめる音でようやく女性が顔を上げた。
「あ、」
ここらでは見たことのない顔だった。顔のパーツのすべてが小さく、大人しそうな印象を受ける。祈っている姿と、顔立ちの印象が百八十度違って見えた。
そばにひとがいるとは思わなかったのだろう、女性は、驚きに目を瞠っている。
「すみません、驚かせましたか」
崇文は精一杯穏やかな発声を心掛け、女性をおびえさせないよう好意的な笑みを作った。無理に口角を上げたので頬が引き攣る。常々、周囲に「黙っていると、筋ものに見える」と言われるきつい目元が、妙な形に歪んでいるのが自分でもわかった。
「箒を片付けようと通っただけです。お祈りの邪魔をしてすみません」
「……いえ」
女性は顔を俯け、小さく首を振った。二人の間に木枯らしが吹き抜け、掃いたばかりの参道に枯れ葉がまた舞い落ちる。女性が立ち去る気配はない。
「――ずいぶんと熱心にお祈りされていましたね。きっと仏様も喜ぶでしょう」
何を祈っていたのかさりげなく水を向けると、女性が弾かれたように顔を上げた。つぶらな瞳に光が灯る。
「あの、あの、私……」
何度か言い淀むと、女性が突然目を潤ませた。やばい、と思う間もなく、ぼろりと大粒の涙が零れ落ちる。
「私、どうしたらいいかわからなくて」
そう言って、両手で顔を覆って泣き始めた。
「――落ち着いてください」
顔は無表情のまま、崇文は内心で盛大に冷や汗をかいた。
早く泣き止んでくれ。家族や隣人にこんなところを見られたら――。
日頃から、「顔は悪くないのに、なぜか恋人ができない」と周囲に訝しまれている。女性を泣かせていたなんて噂が立ったら、どんな尾ひれがつくかわからない。
(勘弁してくれ! 俺が泣かせたみたいじゃないか!)
内心叫び出しそうになりながら、崇文は女性を宥めた。精一杯の優しさを込め、一切の性的な雰囲気を排除して女性の肩に手を置く。
「よければお話を聞きますので……。お堂は寒いので、どうぞこちらへ」
寺の敷地内にある自宅を示しても、女性は顔を覆ったまま、その場を動こうとしない。
「熱いお茶でも淹れますから」
頼み込むように言うと、ようやく女性が顔を上げた。
「私、やっぱりこの結婚、やめたほうがいいんでしょうか?」
――結婚。
いったい、なんの話だ。
そう思った瞬間、心の声が現実の音声となって耳に届いた。
「結婚? なんの話?」
女性にしては低めの、よく通る声。
「結婚すんの、崇文」
……最悪の相手に聞かれてしまった。
崇文は、ぎくしゃくと声のしたほうを振り返った。
幼馴染の
「司、これは……」
司は、崇文と女性との顔を交互に見ながら、小走りに近づいてきた。傍まで来ると、心底驚いたというよう息を吐き出した。
「ぜんっぜん知らなかった! 崇文、付き合ってる人いたんだ!」
長い睫毛に縁どられた瞳を大いに見開き、遠慮のない力で肩を叩いてくる。司の顔には怒りや嫉妬はまったく見て取れず、ただただ、興奮していた。今にも「おめでとう!」と言い出しそうで、崇文は慌てて遮った。
「違うんだ、」
言ってからひどく後悔した。違うんだ、だなんて、まるで修羅場の浮気男の言い訳ではないか。
それでも弁解は止められず、この女性とは初対面であること、寺にお参りにきた客であることを必死に説明した。勘違いされては堪らない。
「この女性とは、今! たった今、会ったばかりだ! 話しかけたら急に泣き出して、」
隣でびくりと肩を震わせるのが伝わってきて、崇文は慌てて女性に向き直った。
「いえ、違うんです、迷惑とかそんなんじゃなくて。あの、ほんとに突然泣き出したからびっくりしただけで……」
針の筵にいる心地で喋り続け、最後に司の目を見つめて訴える。
「やましいことなんて、本当にないんだ」
「やましいなんて、一言も言ってないじゃん」
司がついに吹き出した。少し落ち着いてよ、と笑いながら背を叩かれ、崇文はようやく口を噤んだ。
「なにか泣くほど辛いことがあったんでしょう?」
司は、女性に優しく微笑みかけると、肩を抱くようにして住居のほうへと促した。
「よければお話聞きますんで、中でコーヒーでも飲みませんか?」
女性が小さく頷く。だいぶ落ち着いたのか、同性に対しての安心感なのか、さっきまで、てこでも動かなかったのが嘘のように素直に歩き出した。
どっと押し寄せる疲労を感じながら、崇文も二人の後をついて行った。