「明日の朝、傷口が綺麗に塞がっていたら報告するね。……ちなみに、このことって他に誰か知っているの?」
このこと、というのはもちろんアルの治癒能力についてだ。アルもすぐにそれを察してくれる。
「おっさんだけだ。女王陛下も、二人の兄も、モンブラン隊の人間も知らない。どこから漏れるかわからないからな。相手がおっさんでも極力、話題にはするな」
「うん、わかった。そうするね」
ライラは、そろそろ自分の部屋へ帰ろうと立ち上がる。
「遅くに突然、お邪魔しました。また明日ね、アルくん。おやすみなさい」
「…………」
アルの返事がないのが気になったけれど、いつもそうだったなと思い直し、扉に手をかけた時だった。
「──昼間、おまえの手を振り払ったのは」
アルの深みのある声が追いかけてきた。
「このことを知られたくなかったからだ」
振り返れば、彼はバツが悪そうに俯いていた。そうしているとずっと年上のはずの彼が、まるで子供のように見えて。
「…………悪かったな」
素直でない謝り方が、余計に彼を幼く見せて。ライラの胸の奥は、じわりと温もりで満たされていった。
「……ううん、いいんだ。誰にだって秘密はあるものだし。……なるべくなら隠したいって気持ち、ボクにもわかるから」
部屋を出ていく際に、ライラはアルから数冊の本を手渡された。
「字は読めると言っていただろう。全部読んでおけよ」
茶会のマナーが載っているとのことだった。たしかに今後、王妃から誘われる機会があるかもしれないのだった。
じっくり目を通さなければと、道すがら本のタイトルを確認する。けれど……犬の調教師の自伝や、狼の生態について詳しく載っている本まで、そこには忍ばされていた。
きっと、偶然なんかじゃない。
「……えへへ。やっぱり、アルくんって優しいな……」
行きとは異なり、部屋へと戻るライラの足取りは軽かった。胸の奥は未だにぽかぽかと陽だまりが照り付けて、宙に浮く感覚すらある。
「ただいま、シュシュ」
シュシュはクッションの上で、腹部を露わにして眠っていた。野生を忘れて安心しきったように眠る姿に、ライラはますます笑みを深くする。
けれどそれに終わりが訪れたのは早かった。
ノックの音。一回、二回。
しかも扉からではない、窓のほうから。人がいるはずなどないのに。なぜならジュリエットに案内されたこの部屋は、二階にあるのだから。
恐る恐る窓を見れば、月光が生み出した細いシルエット。一気に縮み上がる心臓、止まる呼吸。しかしその人影の正体に気づいた瞬間、ライラは目を見開いた。
闇夜に映える、桃色の波打つ髪。“天使”だ。
竜人族の里が滅んだあの日、ライラを救った彼がそこにいた。
急ぎ窓を開けると、ライラは口をパクパクさせながらも声を紡いだ。
「な……っ、なんで、君がここに⁉ お城の敷地内なのに、どうやって……⁉」
ライラの問いかけに、彼は微笑んで背中の翼をはためかせるだけだ。
「あ──そ、そっか。飛べるんだもん、お城の警備を搔い潜るのなんか簡単だよね……っ」
伝えたいこと、訊きたいこと、お願いしたいこと。なにから話したらいいか、整理したくても焦りからうまくいかない。
「あ……あのね! あの日、助けてくれてありがとう! 君が里から遠ざけてくれていなかったら、きっとボクも死んでいたと思う……君のおかげで助かったよ! ずっとお礼を言いたかったんだ」
ライラの発する言葉のひとつひとつに、天使は頷いて優しく微笑む。けれど、なにも言葉は返してくれない。
「それとね、君に会いたいって言っている人がいるんだ! 会ってくれないかな? これと同じ羽根を彼も持っていてね、持ち主を何年も捜していて……それでもずっと手掛かりがなかったらしくて。なにか知っていたら、教えてほしいんだ!」
一転、今度は眉を下げて首を横に振る。どれに対して否定したのかわからなくて、ライラは言葉に詰まってしまう。
「そ、そう、ダメなんだ……。それじゃ、せめて名前を教えてくれる? ボクはライラっていうんだ! あっ、もし話せないのなら、紙を用意するから書いてくれたら……」
「──……カノア」
……鈴の音の転がるような、というのはこういう声を言うのではないだろうかとライラは思った。
天使は……カノアは、相変わらず眉を下げていた。それでも微笑んでいた。ライラの頬に手を伸ばし、丸い輪郭を優しく撫でる。
「ライラ。……キミの秘密を知っているよ」
労わるような手つき。カノアの手は温かいはずなのに、その一言で容易く体温は奪われていく。
「キミのことは……カノアが必ず、すくってみせるからね」
「え……?」
そっと寄せられた唇。柔らかな感触に驚いて、思わず頬を覆う。その反応をおかしく感じたのか、カノアは上品にくつくつと笑ったかと思うと、そのまま飛び去ってしまった。
窓を覗いても、カノアの姿はもうどこにもない。
しっかり施錠しカーテンも閉めると、ライラは毛布へ潜り込んだ。先ほどまでの高揚した気持ちは、既にどこかに消えてしまっていた。
頭の中で、鈴の声が鳴り響く。
《キミのことは……カノアが必ず、すくってみせるからね》
(救う? ボクを? 何から? ……誰、から?)
鈴の声は鳴り止まない。
《キミの秘密を知っているよ》
背中から全身に向けて、鳥肌が広がる。
「……嘘だ」
そんなはずはない。いくら相手が天使だからって、知っているはずがない。
知っている者はもう、皆がこの世から消え失せた。
そのはずだ。
「バレてなんか、ない」
ライラは自らに、そう言い聞かせる。
「大丈夫。バレてなんかない。誰にも、なにも、バレてなんかいない……」
寒さに耐えるかのように震える声。
逸る心臓をよそに、夜は更けていった。