アルの部屋は最上階の三階にあった。どうして部屋に入る前にわかるかというと、甘い煙草の香りが扉の前から漂ってきたからだ。
トントン、トントン、と控えめなノックの音を立てると、中から気配がした。
「……誰だ」
声色からして警戒心の強さが窺える。扉の向こうにいるのはやはりアルだ。そう理解したとたん、ライラの心臓は大きく跳ねる。
「ラ、ライラです」
「何の用だ」
「ごめんね、遅くに。あのね、少しお話がしたくて……」
アルが扉を開ける気配はない。固く閉ざされた扉の向こう、アルがどんな表情を浮かべているのか想像すると居た堪れない気持ちになる。
「……あ、開けてほしいんだっ。ほんの小さな隙間でもいいから、アル……くんの、顔を見て話がしたいです……」
尻すぼみになりかけたセリフは、開錠の音で遮られた。
ほんの僅か。せいぜい成人男性の拳一つ分程度に開かれた隙間。
それでも開けてくれた、そう喜んだのも束の間。扉の向こうにいたのはもちろんアルだ──しかし彼はなぜか半裸であった。下半身は衣服を身に着けているものの、上半身はまるでなにも纏っていない状態、だった。
それを目の当たりにして、ライラの頭の中は真っ白になった。時間をかけて、目の前にあるのが割れた腹筋であるだとか、鍛え上げられた肉体である、ということが認識できた瞬間、
「……っ⁉ ぴゃあああああああああっ!!!」
叫び声をあげてしまっていた。それは静かな廊下中に響くような大声で。これにはさすがにアルも驚いたようで、急ぎライラの口を封じにかかった。大きな左手でライラの口を覆うと自室へ引きずり込む。それでもなお、ライラの悲鳴は鳴り止まない。まるでアルに後ろから抱きしめられるかのような体勢を取られているうえ、固い胸筋が後頭部に押し付けられているのだ。頬に熱がどんどん蓄積されて、一気にのぼせてしまいそうになる。
「お、ま、え、な……! 大声を出すな! 何時だと思っている……!」
「んんんー! んんー!」
ぶんぶんと首を横に振ると、ライラはようやく解放された。
「ぷはっ……な、なんでっ! なんで服を着てないの⁉」
「あ? 風呂上がりなんだから仕方ないだろうが」
つい振り返ってしまった。くっきりと主張する喉仏。鍛え上げられた、均整の取れた肉体……どれもライラにはないものだ。一瞬だけそれらを視界に収めると、熱くなった顔を両手で覆い、腰を抜かしてしまった。
「アルくんの、へ、変態! 破廉恥! お願いだからなにか服を着てください! なにか羽織ってください……!」
「ちっ、うるせえな……」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
望んだような形では決してなかったけれども、アルの部屋に入ることに成功してしまった。
ライラの頬の熱がようやく落ち着いたのは、アルがシャツのボタンを閉じ終えてからおよそ三分後のことだ。
「うう……ごめんね、取り乱したりして……。竜人族はめったに人前で肌を晒さないんだよ、そういう文化なんだ。家族同士でもそうなんだ。だからその、人肌を見るのに慣れていないというか、刺激があまりにも強いというか……」
「文化という言葉を隠れ蓑に、人を変態呼ばわりとはご挨拶だな」
「だ、だから、謝ってるのに……」
アルの部屋は、当然というべきか広かった。壁を埋め尽くす本棚に、部屋の中央には大きなピアノが置かれている。ピアノを弾くところなんて想像したこともなかったが、彼の趣味なのだろうか。
などと部屋を眺めているうちに、本題を忘れるところだった。
「そうだ、ボクは昼間のことを謝りに来たんだよ。シュシュが人を傷つけないように躾するなんて言っておいて、怪我をさせてしまったことも。……アルくんに無遠慮に近づいちゃったことも、謝りたくて」
「謝りっぱなしだな」
鼻で笑いながら、アルは壁に背をつけた。
「おまえはいつも謝ってばかりだ。『ごめん』が口癖なのかと思うほどに」
「ご、ごめんなさ……あっ」
「……どうやら本当に口癖らしいな」
慌てて口を両手で塞いでももう遅い。アルの溜め息を誘ってしまった。
「謝ったんなら、もう気は済んだだろう。さっさと部屋に戻れ」
「あ、待って。アルくん、ちゃんと消毒したかなと思って心配で。一応消毒液を持ってきたん、だけど……」
ライラはアルの左手に視線を送った。先のパニック状態のさなかでも、不自然な点に気づいてはいたのだ。昼間、シュシュが嚙みついたのはアルの左手。けれどライラの口を塞いだ彼の左手には、傷なんて一つもなかったのだ。
そして今、落ち着いて改めて見てみてもそこに傷跡なんてない。
「消毒液、必要ないみたいだね。まだ数時間しか経っていないのに……どうして傷が塞がっているの、アルくん?」
問いかけられたアルは、しばらく思案顔をした。けれど諦めたように瞼を伏せ、
「誰にも言わないと約束するか?」
強い視線と口調でそうライラに質問……いや、言外に命令をした。誰にも言うなよ、と。
「俺がこの羽根を手に入れた経緯は、前に話しただろう」
アルの手の上に光る純白の羽根。ライラは小さく頷いた。
「十五年前って言っていたよね。たしか下町をキッドさんと散策している時、砲弾に巻き込まれて、致命傷を負ったって……」
「ああ、そうだ。俺は腹に致命傷を負って気を失い、次に目を覚ました時には手に羽根が握らされていた。……それだけじゃない、傷がすべて塞がっていたんだ。それでおっさんをなんとか背負って命からがら生き延びた。……ここまでは前に話した通りだ」
問題はここからだ、と。アルは自身の腹部に手を当てる。
「それからだ、俺の体に異変が起きたのは。どんなに深い傷も負っても、たちまち回復するようになった。自然治癒能力、なんて言葉では言い表せられないほどの早さでな」
ごくりとライラは喉を上下させた。
「痛み自体は、感じるの?」
「ああ。だがそう長くはない。傷の深さにもよるがせいぜい一時間程度で完全に痛みは消えて、傷も綺麗さっぱりなくなる」
ライラはそれを聞いて、真っ先に浮かんだ感想を口にした。
「それは……、便利だね?」
「まあな。命を狙われることの多い身としてはありがたいことだ」
しかし、と。アルは続けた。
「残念ながら、毒に関してはこの治癒能力は効かない。放っておけば治るだろうと高を括っていたら三か月もの間、苦しむ羽目になったこともある」
不思議な話だとライラは思った。
どんな傷も短時間で治るのに、毒には効力を発揮しないなんて。
ふと思いつき、ライラは消毒液の蓋を外した。蓋の内側に親指の腹を押し付け、スッと左右にスライドさせる。ピリッとした感触に、思わず眉根を寄せた。
「っ痛……」
「おい、何をしている?」
「て、天使に救われたことがきっかけでアルくんがその体質になったなら、ボクにももしかしたら、同じように治癒能力があるかもしれないと思って……」
ぱちん、と額を叩かれてしまった。アルにとっては軽い一撃のつもりでも、
「愚か者。自分で自分を傷つける奴があるか!」
「だ、だって」
アルは消毒液を取り上げると、ライラの傷口を目がけて大胆に振りかけていった。次いで、棚から包帯を取り出す。
「……なんで手当てをしに来たおまえが、俺に手当てされているんだ……」
「……くふふ、ほんとだね」
アルの言い方にほのかに優しさを感じて、思わずライラの頬は綻ぶ。ぐるぐる巻かれた包帯のせいで、太い親指になってしまっているのすらも微笑ましく思えた。