婚約者を守れなかった。そう思ったのは、アルだけではないのだろうとライラには容易に想像がついた。きっと城の内部でもそう囁かれたことだろうし、もしかしたら国民からの評判だって落ちてしまったかもしれない。
「毒を仕込んだ犯人って、捕まったの?」
ライラの問いかけに、キッドが残念そうに首を振る。
「力及ばずってところだね。毒ってのは厄介でさぁ。どこで盛られたか特定するのも困難だし、そもそもどの毒なのかわからないと、入手経路も不明なことが多くてね。それに、全部が全部ユークレース派の仕業とは限らないから」
ちら、と。焦げ茶の視線がアルに向けられた。視線の先の彼は、ふと瞼を閉じる。
「次兄のサイファーには妻がいたが、彼女も何者かに毒殺されている。それも城で過ごしている間に、な。犯人は間違いなく城の内部の人間だ……これまで毒に見舞われていないのは“女王陛下”と、ユークレース陣営だけ。これだけでも疑う材料には足りるだろう」
ライラはごくりと唾を飲む。まるでアルは、自分の母親である王妃と長兄のユークレースを最も疑っているみたいだ。初対面を果たしたのはつい先ほどだが二人とも、誰かに毒を盛るような人物には到底見えなかったのに。
それに、アルがやたらと王妃のことを“女王陛下”と連呼するのが気になる。正式な呼び名ではないばかりか、まるで彼女を母親だとは微塵も思っていなさそうで……むしろ敵と思っていそうですらある。
いや、きっとそう。この城はアルにとって、裏切りに満ちている場所なのだ。
「……大丈夫だよ、アルくん!」
「あ? 何がだ」
「もう、ボクからの一票はアルくんにあげるよ! この国で一番偉くなれば、周りが味方ばかりになるはずだから、毒を盛られる心配だってなくなるでしょう? ボクからの一票と、あとは狼人族か魚人族のどちらかから一票貰えれば、晴れてアルくんは王様になれ、る──」
ライラが話している最中に、キッドは頭を抱えていた。それに気づかないまま、とうとう最後までライラは口走ってしまった。アルが眉をぴくりと動かしたところでようやく、漂う空気の冷たさには気づいたのだが……あまりにも遅かった。
「……おまえは、自分が何を言っているかわかっているのか?」
ゆっくりとした問いかけ。アルは笑みすらたたえていた。だからこそ恐ろしかった。目が笑っていないどころか、激しい怒りが瞳の奥に見える。ライラは全身の血管が縮んだ感覚がした。
「ユークレースの公約は聞いたのか?」
「い、いえ、そんな時間はなかったので」
「サイファーとの謁見は果たしたのか?」
「え、遠征中らしかったので、会えてないよ?」
「俺の公約をひとつでも調べはしたのか⁉」
「し、してないですっ!」
矢継ぎ早の質問に回答するたび、静かに、静かにアルの怒りが降り積もっていくのがわかる。
「それが、どうして俺に投票することになるんだ?」
「だって、アルくんには命を救ってもらったし、たくさんお世話になったし。それにアルくんに、王様になってほしいって思ったから……」
愚か者、と。呆れの色を隠しもせずに、アルがそんな罵倒を口にする。
「選挙は人気投票じゃないんだ。誰に票を投じるかは掲げている公約の内容、それを達成できるだけの力量の有無、それぞれを見極めてから判断しろ。選挙までの半年間を有効に使え。私情で国の行く末を左右する奴があるか!」
「……でも……も、もしもだよ? ボクがユークレース殿下や、サイファー殿下を選んだら、アルくんはどうするの? それでも構わないの?」
その質問にアルが浮かべた笑みは、穏やかさなど微塵もない。凶悪さすらも思わせる、けれど堂々とした表情だった。
「当たり前だ。そのときは狼人族と魚人族、どちらの票も俺が戴く。何が起きようと、この国の王になるのは俺だ」
……彼のような自信に満ちた表情を浮かべたことなど、ライラには人生の中でも一瞬たりともなくて。その鮮烈な一瞬に、ライラはどうしようもなく惹かれてしまった。知れば知るほど遠く感じる存在なのに、やはりどうしても追いかけたくなってしまうのだ、アルという男は。
(アルくんみたいな人に少しでも近づくには、やっぱり今のままのボクじゃダメだ。もっとたくさん、この世界のことを勉強しなくちゃダメなんだ……!)
「……『自分で見て聞いて、調べて考えて、判断して行動する』だもんね。ごめんね、もう軽率なことは言わないように気を付ける」
ライラはアルに、精一杯の笑顔を向けた。彼のような人になるのは、きっと今すぐには無理だ。途方もない時間と努力が必要だろうけれど、それならばせめて、今は近づきたくて。彼のような自信に満ちた表情はできなくても、せめて強がっていたかった。
「……ふん、勝手にしろ。俺はおまえが竜人族の代表だからといって、媚びへつらいはしない、特別扱いもしない。その代わり、おまえの意志決定を捻じ曲げることもしない」
その瞬間ライラは、アルの言った「特別扱い」に思いを馳せてしまった。誰のこともまるで信用していないような彼に、「特別」な存在がいるとは思えなくて。強いて言えば、アルとライラ、二人の唯一の共通点──羽根の持ち主である天使くらいだろうか。命を救われてから十五年もの長きにわたって、捜し続けていたそうだから。
「おっと。もうこんな時間か。アルくん、資料はそれで全部?」
「ああ」
アルは大量の資料をまとめてカバンに詰め込んだ。
「どこか移動するの?」
「俺の屋敷だ」
「や、屋敷っ⁉」
「王族でない者、城に従事していない者を城に住まわせることはできない。おまえの身はモンブラン隊預かりだからな、住まいは俺の屋敷の一室を貸してやる」
いよいよ本格的に衣食住のすべてを彼に頼り切ることになってしまいそうだ、と思ったり、なぜお城とは別にお屋敷があるのだろう、と思ったり、お屋敷ってどんなところなのだろうと想像したり……ライラの頭の中はとにかく目まぐるしく忙しかった。
「……おい、こいつのことを忘れてるぞ」
アルがシュシュの首の後ろを掴もうとした。その瞬間、シュシュは牙を剥いて、アルの指に齧りついた。
「シュシュ⁉」
フー、フー、と息を荒らげ激しく威嚇するシュシュ。ライラが急ぎ抱き上げてもそれは止まない。なぜアルにばかりこんなにも警戒するのかという疑問も湧いたが、やはり優先されるべきはシュシュへの躾と、なによりアルの無事だった。
「ダメだよ! 人に嚙みついちゃダメ! 絶対にダメ!」
声を荒らげたのに驚いたのか、シュシュは耳をしゅんと下げて物悲しそうな顔をした……これが少しは躾に繋がればいいのだが。アルはといえば、嚙まれたのだろう指をハンカチで包んでいる。ひどく出血しているようだ。
「大丈夫⁉ アルくん、よく見せて……!」
ライラはアルに向かって手を伸ばした。けれどその手は、簡単に振り払われてしまった──なんの躊躇もなく。それがまるで当然とばかりに。
「……俺に構うな……!」
これまでで最も冷たい声色で、突き放すように、そう言われてしまった。
アルはカバンを無造作に掴み、早々と部屋を去っていく。遠く、遠く、遠ざかる背中。ライラは何も言えなくて、一歩もそこから動くことができなかった。
(……ボク、間違っちゃったかな。また、距離感を間違えちゃったのかな)
振り払われた手のひらが、ジンジンと痛みを訴える。
きっとシュシュのような耳がライラにもあったなら、地面と平行に垂れ下がっていたに違いない。ライラがようやく歩き始めたのは、再びアルを追いかけられたのは、
「ラーイーラーちゃん。……茨の道、それでも進むんでしょ?」
側に居てくれたキッドの、その一言があったから。