幼い頃から、物語に登場する王子様はライラにとって「憧れの存在」そのものだった。
どんな逆境に直面しても真っ向から立ち向かい、自らの運命を切り開いていく王子様が眩しく思えて。自分もいつか王子様のようになりたい、と──。
そんなライラの目の前に、突風のように現れたのがアルだ。
危ないところをスマートに助けてくれた、だけでなく。強く、賢く。狭い世界しか知らなかったライラを、広い世界へと連れ出してくれたのだ。
物語の中の王子様が具現化されたかのような彼が、近くにいてくれるのが嬉しくて。その背中を追いかけながら、こんな人が初めての友達になってくれたらいいな、なんてライラは思った。
その矢先のことだ。王子様みたいだと思っていたアルが、自らを王子だと宣言したのは。
ライラにとってその事実は、驚きであり寝耳に水であった……けれどそれ以上に、
「…………アルくんってやっぱり王子様だったんだ⁉」
納得であり、至上の喜びだった。
場所は第三王子の部屋。中央の椅子に腰かけ、書類に目を通すアルがいる。
「……で? “女王陛下”との謁見の成果を聞かせてもらおうか」
それに応えるのは第三王子に仕える、近衛騎士のモンブラン隊隊長キドリー。通称キッド。
「ライラちゃんが竜人族の成人規定に達するまでの半年間、モンブラン隊の遠征に同行する許可をもらったわよ。住まいや身の回りのこともぜーんぶ、ウチが請け負うことになりましたっと」
それを受けて、アルは片方の口角を上げて微笑んだ。幼い子供が見れば泣いて逃げ出してしまいそうな凶悪な笑み。それでも彼は王子様なのだ。
「実質、コイツの身はモンブラン隊預かりとなったわけだ。……“女王陛下”もどうやらそれがお望みのようだな。あまりに俺たちに都合が良すぎる展開だ」
「ライラちゃんの身に万が一のことが起きたら、全責任はモンブラン隊……ひいてはアルくんのものになる、ってことだからねえ……」
「何を仕掛けてくるかわからない。選挙まではいよいよ気を抜けないな」
ところで、と。アルは琥珀の強い視線を傍らのライラに向けた。
「さっきから、何をそんなに見つめている」
ライラは気が付かなかった。知らず知らずのうちにアルにジリジリ近づいて、憧憬の眼差しを至近距離で浴びせていたことに。
「ご、ごめん! アルくんが王子様っていま初めて知ったはずなのに、初めて知った気がしなくて、でもやっぱり知ったからには憧れの王子様を近くで見たいなと思っちゃって……!」
「俺は真剣な話し合いをしているんだ。『待て』ができないなら部屋からつまみ出す」
「ま、待ちます! はい、このとおり!」
シュシュとふたり(正確には一人と一匹)、並んで床に正座する。アルは鼻で笑うだけだ。
「ふん。それでいい」
「ちょ、ちょっとライラちゃん、いいのよそんなことしなくてっ!」
キッドに引っ張られる形で今度は立たされる。途端にふらつく足。なんだかもう、膝に力が入らない。
「ごめんね、ライラちゃん。自己紹介の時はアルくんの上司です……なんて、嘘ついてさ。混乱するのも無理ないよねえ」
混乱……は、確かにしていた。けれどよくよく考えれば辻褄が合うのだ。いくらアルが上級貴族だからといって、近衛騎士団の一隊長であるキドリーに、ヒラの騎士があんな不遜な態度を取れるわけがないのだから。あそこまで堂々と嘘をつかれては疑う気にもならない。
「でも、なんでそんな嘘を?」
キッドが、言いにくそうに頬を掻く。
「……アルくんはねえ、昔から命を狙われてんのよ」
「いっ、命を⁉」
旅の途中で話題になった、何度か毒殺されかけたという話。こちらはどうやら嘘ではなかったらしい。
「さっきも言った通り、長兄のユークレース殿下は王妃殿下の後ろ盾があるから、城の内部からも国民の多くからも、次期国王の最有力候補として熱望されてるのね。俺たちは陰でユークレース派と呼んでるんだけど、一部にはけっこうな過激派連中が紛れ込んでる。敵対候補者のアルくんを亡き者にしようと襲い掛かられた数、両手の指じゃ足りないくらい」
ごくり、とライラは唾を飲んだ。反面、キッドはにこりと人好きのする笑顔だ。
「まあ、モンブラン隊だって鍛えてるし、アルくんはあの通りの強さだし? で、返り討ちにしたり捕えたりでなんとか生き延びてきたわけ。……ただ、どんなに腕っぷしが強くても、万事解決できるわけじゃないんだ」
はあ、と深い溜め息をついたのはアルだ。
「──暗殺に便利なものといえば何かわかるか? 毒だ」
ライラが衝撃に目を見開いている間に、アルはティーカップに自らハーブティを注ぐ。実に慣れた手つきで。
キッドは苦々しげに口を開いた。
「実際、遠征中が一番襲われることが多いのさ。警備も手薄だからね。だから遠征中のアルくんはなるべく、出自を明かさずに公務に携わるようにしてるんだ。“お貴族様出身、ヒラ隊員のアルくん”ってね。おかげで毒を盛られる頻度もかなり減ったよ。結果的にライラちゃんにも正体を隠すことになっちゃったんだけどね」
「……そういうことだったんですね」
ライラが納得したように頷くと、キッドは安心したように頬を綻ばせた。かと思えば、再び真剣な表情に戻る。
「初めて毒を盛られたのは、アルくんが五歳の時だった」
きゅっと胸が詰まる。そんな幼い頃に毒を盛られていたなんて、と。毒に苦しむ幼いアルの姿を想像して、涙ぐんでしまいそうになる。けれどキッドの説明は続く。
「それから度々、食事に毒を仕込まれることが増えて……婚約パーティの時もそうだったよね、あれはたしか……」
「もう四年前になるな」
「こ、婚約パーティ⁉ アルくんって結婚してたの⁉」
「……話は最後まで聞け……」
そう言いながら、アルが再びカップを口に運ぶ。「最後まで話す」役割は、どうやらキッドに託されたらしい。
「婚約祝いのパーティで出された飲み物に、毒が仕込まれてたのよ。アルくんは幸い口を付ける前だったんだけど、婚約者の御令嬢が気づかずに飲んじゃって……」
「相手の方はどうなったんですか? まさか……っ」
亡くなってしまったんじゃ──悲しい想像がライラの頭を巡る。
「すぐに王国の医療班に繋げたから命は助かったんだけど、『こんな恐ろしいお城に嫁ぐことなんてできません!』って。結局、婚約自体が破談になっちゃったんだよね」
「そんな……」
ライラはいよいよ涙ぐんでしまいそうだった。きっとアルにとっては好き合った相手だったのだろうに、そんな形で引き離されてしまったなんて。この悲しい一件は、彼の心の深い傷となっているに違いない。
…………というのは、ライラの妄想でしかなかった。
「まだ婚約祝いのパーティで幸いだったな。もし結婚式当日だったら、国全体のスキャンダルとして大々的に叩かれていたところだ」
アルは悲壮な表情を一切見せず、けろりとそんなことを口にする。ライラは思わず目を丸くしてしまった。
「好きな人だったんじゃないの? それなのにそんな言い方しなくても……」
「? 何を言う、婚約パーティの日が初対面だったんだぞ。……それでも、妻となる相手を守れなかったのは俺の責任だ」