頭の中に即座に現れる選択肢。殴って逃げるか、蹴り上げて逃げるか、一目散に逃げるか。
相手が身に着けているのはおそらく寝間着とガウンだけ、武器を持っている様子はない。腕の細さもライラとそう変わらない程度には痩身だ。とはいえ相手は成人済みの男性。不意の一撃を食らわせたところで時間稼ぎになるかどうか──などと考えているうちに、
「ライラちゃんお待たせー、申請してきた……よ……」
キッドが帰ってきた、と同時に彼は光の速さで膝をつく。
「こちらにいらっしゃったのですねユークレース殿下! 失礼しました!」
「……で、『殿下』⁉」
キッドの口から発せられた「殿下」。これが意味するところはつまり、ライラの髪を勝手に三つ編みにし始めた彼こそが、この国の王子様。次期国王の候補者の一人。ライラは人知れず、大量の冷や汗をかいていた。
(な、殴らなくってよかった……!)
「モンブラン、久しいな! 部屋に籠るのにも飽きてしまったので、庭園の花々でも愛でようかと思って廊下に出たところ、美しいエメラルドの蝶々を見つけてしまったのでね。ついつい手を伸ばしてしまったのが一分前のことさっ!」
繊細な印象の見た目に相反してハキハキとよく喋る人だ。ライラが振り返ると、どうやら三つ編みが完成していたらしい。急いで膝をつこうとするも、肩を掴まれ阻まれてしまう。
「自己紹介が遅れたね、蝶々の君。私はユークレース、この国の第一王子だ」
「あ……えっとその、ライラと申します。竜人族の里から謁見に参りました。こちらこそ、殿下とは気づかずにし、失礼しました!」
彼、もといユークレースはうんうん、と首を縦に振った。
「そうか。キミが……。里が大変なことになったと聞き及んでいるよ……さぞ辛かったことだろう! 泣いていいのだよ、思い切り! さあ、私の胸で!」
「あ、いえ、だい、大丈夫です……。殿下、もったいなきお言葉をありがとうございます」
そこまで仰々しく言われては、出る涙も引っ込んでしまう。
「む……そんな他人行儀では今後の関係に響いてしまうだろう。最初が肝心! ぜひ“ユーくん”とでも呼んでくれたまえ。これは王子命令だ!」
(この人はボクを不敬罪にしたいの⁉)
キッドに視線で助け舟を求めるも、どうやら彼もお手上げらしい。意を決したライラはユークレースに向き直り、
「ユ……“ユーくん”……?」
要望通り、おそるおそるあだ名を口にした。
「うむ、上目遣いをしながら少し怯えも見せるという小技、実にあざとい、実にグッドだ。今後も、そう呼んでくれたまえよ!」
ちらりと時計を見るや、彼はさらりと踵を返した。
「おっと失念していた。薬の時間なので失礼するよ! ライラくん、次回は私の部屋に遊びに来るといい。素敵なコレクションの数々をお見せするよ!」
颯爽と立ち去る後ろ姿。急速に静かな空間へと成り果てた廊下。ライラは既視感を覚えた。
「……嵐が去ったみたい」
「うーん、ライラちゃんってば的確な表現」
王妃殿下の言っていたように、第二王子は遠征中のため今は不在とのことだった。キッドとライラは、第三王子の部屋へと向かう。口にして良いのかわからないことを話題にしながら。
「ユークレース殿下は、その……王妃様にあまり似ていませんね?」
冷静に振り返れば目の色や形などの見た目は似ているのだが、醸し出す雰囲気が違いすぎて、あまりそう感じさせない。キッドは、まあね、と軽めの相槌を打つ。
「でもここだけの話、王妃殿下が次期国王陛下に推しているのは、ユークレース殿下なんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「長男っていうのもあるけど、人の心の機微に聡いというか。頭の回転も恐ろしく早いし、交渉術なんかにも長けてる。国民からの人気も圧倒的に高いんだ、見た目にも華があるしね。王妃殿下の後押しもあって、次期国王陛下として最有力視されているのはユークレース殿下なんだ」
たしかに、彼がライラに残していったインパクトは果てしなく大きい。初対面の相手を瞬時に吞み込むだけの力が、彼にはあるのだ。そういった他を圧倒する力も、次期国王には必要な素養なのだろうか。
「……そういえば薬の時間って言っていましたけど、どこか悪いんでしょうか?」
「幼い頃に体調を崩されてからは、定期的に薬に頼らざるを得ないみたいよ。その薬の開発に、王妃殿下自身も関わったんだって」
「……スケールがでかいといいますか、手広いといいますか、王妃様ってすごいお方なんですね」
「元々貴族の生まれで、成人してからは国の科学研究室に所属していたらしいからね、やんごとなき才媛よ。陛下に見初められて婚約した後は、研究室も辞めちゃったみたいだけど」
王妃は美しさだけでなく、頭脳も持ち合わせているようだ。そしてその美しさと頭脳を受け継いだ、ユークレース。王妃が国民の多くから支持されているのならば、彼女によく似たユークレースが最有力候補になるのも頷ける。
頷ける、のだが。
「……ボクの中の王子様像と、なんか、ちょっと違うかも……」
「あははー。まあ、強烈な感じは否めないよねぇ。っと、もうすぐ第三王子の部屋だよ」
モンブラン隊隊長という立場上、第三王子の部屋に限り、キッドは申請なしで入れるらしい。部屋の扉の前で、ライラは深呼吸を繰り返す。
「あははー、ライラちゃんったらまだ緊張してんの?」
「だって、こんな……一日に何度も国の偉い人に会うことなんて、そうそうないですもん」
「ま、そりゃそうだよね。でも安心して。第三王子だって悪い人じゃないからさ。──ちょっとだけ、“人が悪い”ところがあるけどね」
ノックを四回。返事はない。
「……ご不在でしょうか?」
「いーや、いるね。ほんっと、“人が悪い”……」
主の返事が無いのも構わずにキッドが扉を開く。それと同時にライラの胸に飛び込んできたのは、白いモフモフとした生き物──。
「わ、あっ……⁉ ──シ、シュシュ!」
揺れる尻尾。微かに香る消毒液の香り。間違いなくシュシュだ、狼違いではない。
「な、なんで王子様の部屋から出てきたの……⁉ まさかアルくんから逃げてきたんじゃ……⁉」
懐いていなさそうだとは思っていたが逃げ出すほどとは。ライラがきょろきょろと辺りを見回すと、窓際に見知った大きな人影。どうやらテーブルの上の書類を整理しているようだ。
「……アルくん!」
「謁見は済んだのか。ご苦労だったな」
ひとしきり整理を終えると、アルは豪華な装飾の椅子に深く腰掛けた。一気に縮み上がる、ライラの心臓。
「ア、アルくんっ! いくらアルくんだからって王子様の椅子に、そんな……! 座っていいの⁉」
「別に構わないだろう。これは俺の椅子だ」
「…………王子様の部屋に、アルくんの椅子があるの? すごいね……仲良しなんだね?」
とうとう背後のキッドがぶほっと噴き出した。腹を抱えて笑うキッドに対し、アルは呆れの視線を向けている。いや、むしろライラに向けて。
「……おまえが絶望的に察しが悪いことは、よくわかった。まあ、騙していたのはこちらなのだから致し方あるまい」
その時になって、ライラはようやく気付いた。シュシュの消毒液とは異なる香りが、鼻をついたのだ。
甘い、甘い煙草の香り。
第三王子の部屋の香りも、今朝乗ってきた馬車の香りも──すべて、アルの煙草のもの。
「では改めて、正式な自己紹介だ。『アルヴィン•ファルミリオ•リームンヘルト』……この国の第三王子は俺だ」