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3-9.アルと、赤ん坊

 アルは懐から、例の羽根を取り出した。十五年前に手に入れたという割には、オレンジのランプの明かりにも染まらない純白を維持している。

「まだ、この羽根を手に入れた経緯を話していなかったな」

「あ……うん。気になってたんだ。羽根の持ち主に命を救われたって言っていたけど、十五年前に何があったのかなって」

「戦争だ」


 十五年前まで、この国は戦争をしていた。隣国のヴィソラージアとの争いが激化していく中で、両国間と接していた小国•シグもまた戦争に巻き込まれることとなった。リームンヘルトとヴィソラージア、どちら側に付くのかはシグ国内でも意見が割れていた。


「俺はまだ当時七歳と幼い年齢だったが、おっさんとは既に知り合っていて、その日も行動を共にしていた。俺たちが王都の下町を散策していたところに、砲弾が撃ち込まれたんだ。どこの国からの宣言もなく、本当に突然に」


 後に、それはシグ国内のヴィソラージア派によるテロ行為であることが判明する。しかしその当日は何が起きたのか、リームンヘルト国内でも全容を把握できた者はほとんどいなかった。実際にその場にいた、アルとキッドもそうだ。


「……砲撃の煽りを食らって気を失い、それからどれくらい経ったのか。赤ん坊の声で目を覚ました。周囲は火の海。左隣にいたおっさんは頭から血を流して意識を失っていた。俺は不思議なことに、ほとんど無傷だったんだ。砲弾が近くに落ちた時、確実に腹部に致命傷を負っていたはずなのに。──そして俺の左手には、見覚えのない羽根が握らされていた」


 アルは姿を見ていないようだが、きっと“天使”の仕業だ──ライラはそう思った。天使はアルの命を救い、どんな手段を用いたかはわからないが、戦禍と致命傷からアルを守ってくれたのだ、と。

けれどアルの話は、これだけで終わらなかった。


「見渡す限り、周囲に生きていた人間は俺を含め三人だけ。出血多量で今にも死にかけのおっさんと、砲撃のせいで親とはぐれたのか……一人で泣いている赤ん坊」


 その時──アルは様々な思いを巡らせた。どちらを救うべきか迷う時間は、確かにあった。……けれどそれも、そう長くはなかった。


「俺は当時、まだ七歳のガキだった。できることは限られていた。抱えられる荷物にも、救える命にも限りがあった。……俺は、自分にとって有利に働くほうを優先した」


 キッドを背におぶり、歩き出した。煙のせいで右も左もわからない中、一刻も早く火の手から逃れるために、幼いアルは必死だった。


「赤ん坊の顔を見ることはできなかった。歩くたびに遠ざかるはずの赤ん坊の声が、いつまでも耳にこびりついて離れなかった。火の海の中、おっさんを背負って歩き続け、ようやく合流した城の者に引き渡して……それからは再び、俺は気を失った」


 目が覚めると、城内の医務室のベッドの上。鼻につく消毒液の匂い。傍らでは、血まみれで死にかけだったはずのキッドが、アルの目覚めを喜んで涙していた。


「昏睡状態から目覚めた時、おっさんは『おかげで命拾いした』だとか『命の恩人』だとか言って笑っていた。……だが、例の赤ん坊はその場で埋葬されたと、人伝に聞いた」


 沈黙が重くのしかかる。ライラは何も言うことが出来なかった。……こんなにも多弁な彼を見るのは、初めてだったから。


「だから、な……さっきは正直、助かった。あの二人には言えないが、赤ん坊の泣き声は苦手なんだ。未だに時々、あの日の夢を見る」


 ライラは想像した。火の海、死にかけのキッド、赤ん坊の泣き声。

 きっとアルの歩く道には、他にもたくさんの死体があったことだろう。それをたった七歳で乗り越えなくてはならなかったなんて。たった七歳で、命の選択を迫られていたなんて。


 淡々と言葉を紡ぐアルの表情に、変化はない。いつも通りの無表情。悲痛さは見られない。


「……時々思う。この国で今、赤ん坊がほとんど生まれてこなくなったのは俺のせいなのかもしれないと。俺のような人間が国の中枢にいては、子供も安心して生まれてはこられないだろうからな」

「……神様は信じていないって言ったじゃない。それなのに、どうしてそういう風に思うの?」

「思想と信仰はまた別物だからな。……信じられないことだが実際、あの惨事が起きてからこの国ではほとんど子供が生まれてこなくなった。出生率は年々下がるばかりだ」


 それは竜人族の里でも同じだった。新たな命が授からないと嘆く若い夫婦を何組も見てきた。アルの言っていた、この国の抱える大きな問題のひとつ──著しいまでの出生率の低下、それに伴う子供の数の減少。

 原因はわかっていない。


「もし今後もこの状況が続くようなら、この国はいずれ滅ぶことになる。ゆっくりと、確実に」


 そっと伏せられる琥珀の瞳。その瞼の裏で、いったいどんな、どれだけの思考が心情が渦巻いているのか。……ライラには想像も及ばない。


「……だが。あの日、あの瞬間。赤ん坊を見捨てたことを後悔したことは、一度もない。俺にはおっさんが必要だった。生き抜くためには大人が必要だった。死なせるわけにも、自分が死ぬわけにもいかなかった」


 ライラは思い出す。数日前のキッドのセリフを。「言わないということは、言いたくないということ」。つまり今の彼の独白は──「言いたかったこと」なのではないかと。


 それをどうしても確かめたくて、

「どうしてそんな話を、ボクにしてくれたの?」

 などと言いかけて、すぐにライラは口を噤んだ。アルが頬杖をつきながら、瞼を重たげに下げていたからだ。

 疲労のピークが、いよいよ彼の両瞼にのしかかっているように見えた。


「アルくん。ねえ、アルくん。もう休んだほうがいいんじゃない?」

「……そうする」

 いつになく素直な返し。ふらりゆらゆら頼りない足取りで階段をのぼる彼を、見守るように視線で追う。

「ああ、そうだ」

 ふと思いついたのか、眠たそうに目を細めながらアルは足を止めた。

「おまえ、字は読めるのか」

「え? あ、うん、読めるよ」

「そうか……」

 どんな意図があっての質問なのかわからないまま、アルが上階で鍵をかけたのとほぼ同時に、ベッドに倒れこむ音をライラは聞いた。もう、さすがに眠気も限界だったのだろう。

「……おやすみなさい、アルくん」


 当然ながら返事はない。が、もうライラは気にしないことに決めた。


 アルが羽根を手に入れた経緯を知ることはできた。けれどライラが依然気になるのは、彼が羽根の持ち主を捜している理由だ。自分のように、あの天使にお礼を言いたいから? ……違うような気がした。


 それよりもずっと必死で、切実で、切羽詰まった事情が彼にはあるような気がした。


 穏やかな寝息を立てて眠るシュシュの背中を、ライラはひたすら撫で続ける。


(……アルくんは今日も、火の海に囲まれた夢を見るんだろうか)


 キッドを背負い、赤ん坊を火の海に置いていく夢を見るのだろうか。

 ライラは歯痒かった。せめて違う夢であってほしい、そう願うことしかできない自分が……。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 それからの二日間は店の仕込みの手伝いをしたり、ヒルダが接客している間は裏でアンジュの世話をしたり。時にはヒルダにせがまれて、身なりを隠して竪琴の演奏をすることもあった。飲みの席にふさわしい賑やかな曲だ。自分の演奏を聴いた人々がこんなにも笑顔になって、曲に合わせて歌って踊ってくれるなんて、とライラは感激すらした。初めてのことだったから。

 キッドもアルも表に出ることこそなかったが、アンジュの世話でふたりとも手一杯のようだった。


 一方、シュシュはといえば包帯も無事に取れ──滞在二日目には元気に走り回れるようになっていた。

「よかった、無事に治って。君を諦めないで、本当によかった」

 ライラは笑顔でそう語りかけた。


 いよいよ、城へと赴く朝がやってきたのだ。


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